「遠慮しないで、もっと大きな声を出したらいいよ。声が出なきゃ、舞台でセリフを言ってもお客さんに届かないからね」
何度も何度も繰り返した。そう簡単に大声は出せるものでないのだと気付いた。意気込みが一挙にしぼむ初日だった。
次の稽古日もOさんと二人きりの発声練習だった。
「疲れたら、甘いもんが一番だ」
区切りのいいところで休憩した。Oさんはいつも饅頭や最中を用意している。無類の甘いもの好きだという。お茶を入れ甘いものを頬張ると、なぜか幸せな気分になれた。
「お芝居なんてのは、お客さんだけが楽しむものじゃないんだな。芝居する僕らが楽しんでいないと、お客さんだって絶対楽しくない」
Oさんの持論が、なんとなく理解できた。
「ひとつ口上を読んでみようか」
Oさんが持ち出したのは『外郎売』だった。
「拙者親方と申すは、お立会いのうちにご存知のお方もございましょうが……!」
「初めてなのに、うまいうまい」
手放しでほめられると気恥ずかしかったが、一方で嬉しくてたまらなかった。調子に乗り読み続けると、自然に声は大きく弾み始めた。
「……外郎は、いらっしゃりませぬか!」
パチパチとOさんは拍手した。最高に気分がよかった。達成感とは、こんな感じなのだろうか。ふとそんな思いが頭をかすめた。
次の公演が決まった。戯曲は『寒鴨』『息子』の短編が二本。決まると、けいこ場が日増しににぎやかになった。初めて見る顔が次々と増えた。あの舞台でアンネを演じていた女性も現れた。可憐でしっかりしたアンネを思い出し、無遠慮に見つめてしまった。
「この間の公演を見て入団する気になったんだって。新しい仲間のSくんだ」
O代表に紹介されて、晴れがましさを覚えた。最初こそ畑違いのところだと後悔したものの、もうその迷いは微塵もなかった。
「楽しいとこですね、ここは。ものすごい人見知りなんですが、頑張っています」
にわか仕立ての標準語はぎごちなくなる。
「一緒やんか。俺も人見知りすんねん。仕事場で同僚と話しすんのも苦しいてどもならんかったんや。周りに煙たがられてばかりやで。それを、ここはすんなり受け入れてくれたわ」
アンネの父親を演じたTだった。ガラス加工工場で働いている。芝居をやっているのがウソみたいに、方言丸出しである。
「こんな暗い性格治りますか?」
Tはガハハハと笑った。
「O先生に任せたらべっちょないわな。俺を見たら分かるやろが」
「はい」
「Sくん。そないしゃっちょこばらんでええんやから。一つの舞台を作り上げる大事な仲間ばかりや。気―遣うたら仲間外れになるで」
Oさんは、やはり穏やかな笑顔で話した。
美容院勤め、郵便局員、商店員……多彩な顔ぶれだった。その誰もが、生き生きしていた。たぶん緊張しているのはわたしぐらいなものだった。(なにくそ!)と思うが、こればかりはままならない。
けいこが始まると仲間たちの顔つきは一変した。なんとかくっついていかなければと焦り、自分を鼓舞した。
戯曲による芝居づくりの前に、念入りに基本げいこを繰り返した。なかでも発声練習はかなり力が入っていた。
「舞台で声が出ないと芝居もなんもないわけや。ここにいるみんなには、誰もが舞台で思い切り叫べるようになって貰わないと」
Oさんの指導は優しい外面と違って、かなりきついものだった。
「おあややははおやにおあやまりなさい、おあややははおやにおあやまりなさい……!」「ア・エ・イ・ウ・エ・オ・ア・オ!」
「拙者親方と申すはお立会いのうちに……!」
口下手も内気も関係ない。とにかく前へ声を飛ばす繰り返しだった。
三か月後の『寒鴨』『息子』の公演舞台に、私は二つの役に抜擢されて登った。生まれ始めて多くの観客の前に立った、何とも言えないプレッシャーと興奮。両足ががくがくと震えた。
「とっつぁん。まだいるかい?」
人前で発する第一声だった。『息子』で重要な役まわりである捕り手になりきってライトを浴びた。(生きててよかった!)共演する仲間たちも同じように顔を輝かせていた。
四十五年続けたお芝居を引退して十数年経つ。日常の暮らしの中で大声を出す機会は殆どなくなった。ストレスはたまる一方である。
しかし私にはそれを克服する強力な武器がある。腹の底から大声を出せばすべて解消だ。
「……この外郎のご評判ご存知ないとは、申されまいまいつぶり!」
浴室に響く大声。(生きててよかった)そう知らしめてくれた大声が、実に心地よい。
何度も何度も繰り返した。そう簡単に大声は出せるものでないのだと気付いた。意気込みが一挙にしぼむ初日だった。
次の稽古日もOさんと二人きりの発声練習だった。
「疲れたら、甘いもんが一番だ」
区切りのいいところで休憩した。Oさんはいつも饅頭や最中を用意している。無類の甘いもの好きだという。お茶を入れ甘いものを頬張ると、なぜか幸せな気分になれた。
「お芝居なんてのは、お客さんだけが楽しむものじゃないんだな。芝居する僕らが楽しんでいないと、お客さんだって絶対楽しくない」
Oさんの持論が、なんとなく理解できた。
「ひとつ口上を読んでみようか」
Oさんが持ち出したのは『外郎売』だった。
「拙者親方と申すは、お立会いのうちにご存知のお方もございましょうが……!」
「初めてなのに、うまいうまい」
手放しでほめられると気恥ずかしかったが、一方で嬉しくてたまらなかった。調子に乗り読み続けると、自然に声は大きく弾み始めた。
「……外郎は、いらっしゃりませぬか!」
パチパチとOさんは拍手した。最高に気分がよかった。達成感とは、こんな感じなのだろうか。ふとそんな思いが頭をかすめた。
次の公演が決まった。戯曲は『寒鴨』『息子』の短編が二本。決まると、けいこ場が日増しににぎやかになった。初めて見る顔が次々と増えた。あの舞台でアンネを演じていた女性も現れた。可憐でしっかりしたアンネを思い出し、無遠慮に見つめてしまった。
「この間の公演を見て入団する気になったんだって。新しい仲間のSくんだ」
O代表に紹介されて、晴れがましさを覚えた。最初こそ畑違いのところだと後悔したものの、もうその迷いは微塵もなかった。
「楽しいとこですね、ここは。ものすごい人見知りなんですが、頑張っています」
にわか仕立ての標準語はぎごちなくなる。
「一緒やんか。俺も人見知りすんねん。仕事場で同僚と話しすんのも苦しいてどもならんかったんや。周りに煙たがられてばかりやで。それを、ここはすんなり受け入れてくれたわ」
アンネの父親を演じたTだった。ガラス加工工場で働いている。芝居をやっているのがウソみたいに、方言丸出しである。
「こんな暗い性格治りますか?」
Tはガハハハと笑った。
「O先生に任せたらべっちょないわな。俺を見たら分かるやろが」
「はい」
「Sくん。そないしゃっちょこばらんでええんやから。一つの舞台を作り上げる大事な仲間ばかりや。気―遣うたら仲間外れになるで」
Oさんは、やはり穏やかな笑顔で話した。
美容院勤め、郵便局員、商店員……多彩な顔ぶれだった。その誰もが、生き生きしていた。たぶん緊張しているのはわたしぐらいなものだった。(なにくそ!)と思うが、こればかりはままならない。
けいこが始まると仲間たちの顔つきは一変した。なんとかくっついていかなければと焦り、自分を鼓舞した。
戯曲による芝居づくりの前に、念入りに基本げいこを繰り返した。なかでも発声練習はかなり力が入っていた。
「舞台で声が出ないと芝居もなんもないわけや。ここにいるみんなには、誰もが舞台で思い切り叫べるようになって貰わないと」
Oさんの指導は優しい外面と違って、かなりきついものだった。
「おあややははおやにおあやまりなさい、おあややははおやにおあやまりなさい……!」「ア・エ・イ・ウ・エ・オ・ア・オ!」
「拙者親方と申すはお立会いのうちに……!」
口下手も内気も関係ない。とにかく前へ声を飛ばす繰り返しだった。
三か月後の『寒鴨』『息子』の公演舞台に、私は二つの役に抜擢されて登った。生まれ始めて多くの観客の前に立った、何とも言えないプレッシャーと興奮。両足ががくがくと震えた。
「とっつぁん。まだいるかい?」
人前で発する第一声だった。『息子』で重要な役まわりである捕り手になりきってライトを浴びた。(生きててよかった!)共演する仲間たちも同じように顔を輝かせていた。
四十五年続けたお芝居を引退して十数年経つ。日常の暮らしの中で大声を出す機会は殆どなくなった。ストレスはたまる一方である。
しかし私にはそれを克服する強力な武器がある。腹の底から大声を出せばすべて解消だ。
「……この外郎のご評判ご存知ないとは、申されまいまいつぶり!」
浴室に響く大声。(生きててよかった)そう知らしめてくれた大声が、実に心地よい。