こころの文庫(つねじいさんのエッ!日記)

家族を愛してやまぬ平凡な「おじいちゃん」が味わう日々の幸せライフを綴ってみました。

子育ての記憶

2019年01月07日 00時31分30秒 | Weblog
 久しぶりの喫茶店である。コンビニの百円珈琲を利用し始めてから、喫茶店で美味い珈琲を堪能する時間はなくなっていた。
「煙草は喫われますか?」
 どうやら店内は分煙になっているらしい。
「いや、全然。煙のこない席がいいな」
「禁煙席にご案内します」
 誘導された席に落ち着くと、やはり空気の澱みを感じない。煙草は喫わない、いや煙草を嫌悪する客には、最高のもてなしである。こうでないと、美味い珈琲は味わえない。
三十代半ばで禁煙した。喫わなくなると、今度は他人がくゆらす紫煙を我慢できなくなった。煙草の匂いが鼻をつくだけで、気分は最悪に。嫌煙意識はいや増す一方である。
 調理師だった若いころ始めた喫煙は自分の嗜好ではなく、職場環境のせいなのだ。同僚の殆どは喫煙者、ヘビースモーカーも目立って多かった。「煙草喫えないんです」と公言する勇気はなかった、持論を主張できない気の弱さもあり、長いものには巻かれろと、煙草を口にした。気分が悪くなっても我慢していると、すぐ慣れた。煙草は百害あって一利なしとの本音は隠し続けて、仲間内でスパスパ、自棄気味に喫った。
 四十前に喫茶店で独立すると、誰彼に気兼ねもなく、煙草は一本も喫わなくなった。カウンター内の仕事をこなすのに、喫煙は邪魔になるだけである。そうでなくても煙草は好きで喫っていたわけではない。付き合いで渋々という状態だったから、独立独歩は禁煙にもってこいの条件を生んでくれた。
 煙草を手にしなくなったが、喫煙するのと同様な日々を余儀なくされた。喫茶店に喫煙はつきものなのだ。客は近くにある化粧品会社の営業部員が多かった。完全メークの女性たちが、なんと煙草をスパスパやる。ティータイムになると、ドーッと来店、瞬く間に店内は煙に覆われる始末。否応なく煙草を喫う状況下に置かれたのだ。間接喫煙である。
 仕事なのだと自分にいい聞かせて、我慢を決め込み仕事に没頭した。
「マスター、煙草喫わないの?」
「君らの喫煙のおこぼれを頂戴してるから、わざわざ喫う必要ないやろ。勿体ないわ」
 常連客に訊かれると、冗談口を叩き煙に巻いた。独立した達成感に、唯一の収入源との思いが加わり、想定以上の頑張りが実現した。
 独立の一年後に子供を授かった。翌年も年子と続いた。ここまでは実家の母の支援を受けて順調な子育てだったが、七年後に三人目が生まれると、事情は一変した。子連れ狼よろしく、赤ちゃんは店内で育てるしかなかった。レジ横の棚に赤ちゃんを寝かせての仕事となった。店内が真っ白になるほどの喫煙環境は気になったが、どうするスベもない。
「マスターに似て、可愛い赤ちゃんやんか」
「忙しい間は、私が世話しといたるわ」
 常連客に人気者の赤ちゃんだったが、それで事態を楽観視するわけにもいかない。
「赤ちゃん、アトピーやったわ」
 深刻な顔で報告する妻の胸に、抱かれた赤ちゃんの額いっぱいに広がるできものは膿み、血も滲んだあばた状態という悲惨な状態に、絶句した。そんな赤ちゃんを、年老いた母に預けるのは無理だ。子連れ狼で店を切り盛りするしか、最善の方法は考えつかなかった。
「禁煙喫茶にしてみるか」
「それで喫茶店やっていけるの?」
「赤ちゃんのアトピー見てられへん。なあ、親やろ、やるしかない。失敗したかて、ええ」
 煙草が喫えない喫茶店など論外の時代だった。目途は立たなくても、わが子のために踏み切るしかない。勿論、珈琲以外の食事メニューを充実させる最低限の対策を講じた。
「都会でも珍しいのに、地方では初めてといっていい禁煙喫茶店や。応援するよ」
 開店案内を手に訪問したA新聞姫路支社の記者は大きな記事にしてくれた。夕刊の一面に掲載されるほど、突飛な話題だったらしい。
「煙草の喫えない喫茶店て、あり得ないわ」
「煙草喫いたいのに、他へいくしかないやろ」
 常連で喫煙する客は捨て台詞を残して、顔を見せなくなった。客数は半分近く減った。覚悟していたものの、かなりショックである。
「私らの赤ちゃんを守るためや。頑張ろ」
 妻の励ましが支えだった。あの手この手を繰り出し、店の経営に奮闘した。
 禁煙喫茶店は、結局一年で破綻を迎えた。
「時代が早かったんやな。残念です。再度挑戦されるときは、必ず連絡ください」
 A新聞の記者は我が事のように嘆き、禁煙喫茶店終焉の記事は、しっかりと掲載された。
 赤ちゃんのアトピーは、かなりの時間を要したが快癒に至った。閉店してから新たに得た仕事も、慣れるまでひと苦労したものの、家族のためと懸命に頑張り、乗り越えた。
(こんな時代やったら、成功してたかなあ~)
 紫煙に無縁の席で飲む珈琲は格別だ。挑戦と忍耐のあの日が、香りの向こうに、蘇る。 
コメント
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