ぎごちないハンドル操作で市役所の駐車場に車を乗り入れた。無料で出入り自由のせいか、かなりの車で埋まっている。近くにある高速バスの停留場を利用する乗客は大半がここに車を止める。市役所に訪れる市民の車は案外少ないのかも知れない。
駐車場に付随したトイレで用を足した。洗面台の鏡を覗き込むと、丁寧に頭髪を撫でつけた。白髪が乱れたサマは他人様に見せられたものではない。(もう六十五だもんな……)真っ白になった髪をしみじみと眺めた。指を櫛代わりに何度も梳いたので、何とか気にならない程度に戻った。鏡の自分ににやりと合図した。
ズボンのズレを直すと、ポンと腰を叩いた。これで用意万端である。
トイレを出ると駐車場から見通せる時計台に目を向けた。目的の健康福祉会館まで十五分もあればラクラク到着する。慌てる必要もない。前もって通知されている時間まで三十分近くある。行き交う車の多い通りを横目に散歩気分である。ゆっくりと足を進めた。
もう冬は目の前だ。冷たい風が顔に当たる。せっかく整えた頭髪が、またハラリと乱れ始めた。(やれやれ……もう…)ため息が口をついて出た。まあいいか。もとより身だしなみを気にする性格でもない。(俺ってB型人間だからな)ガサツな自分をいつも自己弁護する際の決まり文句を頭で反芻した。
健康福祉会館の一階ロビーは閑散としていた。館内に無料の入浴施設があってかなりの利用があるはずだが、まだ営業時間前なのだろう。
案内ボードを探した。事務所の手前にあった。本日の利用案内の項目に『にこにこ健康教室』がある。ポケットからチラシを取り出した。『からだスッキリ教室のご案内』とある。名称が少し異なっているが、他に健康教室の表示は見られない。たぶんこれで間違いないだろう。
ロビーの突き当りに階段がある。『にこにこ健康教室の会場は二階にお上がりください』の掲示スタンドが立っている。まだ不安は残るが、たぶんこの教室だろう。
二階はまるでシティホテルを思わせる広々としたロビーになっていた。左に向かうと、そこに貼り紙があった。どうやら、目的の会場らしい。観音開きのドアが開け放されている。ソーッと覗くと、広い室内を五人の女性が立ち働いていた。並べた長テーブルにコピーした資料と小冊子を配っている。
いくら注意して見直しても、男性の姿は見当たらない。(これは……?)と逡巡した。と言ってもスゴスゴ帰るわけにはいかない。
「すんません」
入り口近くのテーブルを用意していた女性が振り返った。
「あの……ここ、メタボの……」
「ええ、そうですよ。どうぞ入って下さい」
「あ、どうも」
部屋の中にいた若い女性が気づき会釈した。名前を告げると、別の女性と代わった。
「今日は齋藤さんの担当をさせて頂きます、保健師の○○です。よろしくお願いします」
「あ?どうも……よ、よろしく……」
社交性が欠けた性格である。特に女性との会話は苦手だ。別に相手が特別視してくれるはずもないのに、妙に意識してしまう。
テーブルに案内されて、ちょっぴり戸惑いながら座った。目の前に広げられた資料本を見て、ここに足を運んだ理由を思い出した。本の題名は『保健指導ツール 朝晩ダイエットでスマートライフ』添えられた言葉が「自分に合った減量法をみつけよう」だった。
二か月前に集団検診を受けた。その結果はメタボリックシンドローム(内臓脂肪症候群)の予備軍。すぐ市の健康課から電話で、特定保健指導教室の参加を促された。検診結果の数字を気に病んでいたので、参加と即答した。
実は三年前にもメタボ教室へ参加している。最後まで続かず中途半端な形で終わってしまった。今回は敗者復活戦だ。
部屋にいるは高齢者仲間と思しき男性ばかり四人。教室の指導スタッフがやたら多い。
看護師に血圧を測られた。続いて身長体重の測定だ。最後が腹囲。メタボを最も自覚するポッコリおなかをメジャーで図られる。自然とおなかが引っ込んだ。
「それじゃ正確に測れませんよ。はい、力を抜いて」
看護師は手慣れた笑いをくれた。
メタボ教室は始まった。担当の保健師とマンツーマンで面接シートを埋めていく。さすがに保健指導のプロ。巧妙に会話を弾ませ、必要なデーターを引き出す。
「何年か前にも参加したんやけど、結局ケツ割りしちゃって……」
口を滑らせてしまった。ハッと気づき、恥ずかしさで顔が赤くなる。
「ちゃんと齋藤さんの資料は残ってますよ」
保健師の言葉に緊張が解けた。どうやら何もかも承知済み。
次は参加者個々に沿ったメタボ脱出方法の検討に入る。自分に必要なエネルギーを知ることから始める。体格指数と理想体重を計算式で求めた。計算上、理想体重より重く、やせる必要があった。
「この模型を持って、重さを当てて下さい」
若い栄養士だった。彼女が参加者に手渡したのは、脂肪をかたどったもの。一番大きいものはかなり重い。それが三キロ、中のものが二キロ。最も小さいものは一キロだった。その脂肪をなんとか減らして減量しなければならない。食材のカロリー数値を説明された。少し興味を引かれる。
保健師の助言を受けながら、メタボ改善を進めるための自己目標を定めた。三か月後の減量目標二キロ。一日七十八キロカロリーを減らせばいい勘定になる。
「無理なお願いはしませんが、このシートに書きはった目標は何とかやり遂げましょう」
保健師の鼓舞に頷いた。彼女に任せればいい。そうでなければ、ダイエットなど自分の意識だけで続かないのは体験済みだ。今回は最後までやり遂げる。そのために保健師と約束するのだ。目標ができれば何とかなる。
体重チェックシートを眺めた。三年前に途中挫折したヤツだ。朝と夜、体重計に乗る。毎日だと簡単なようで難しい。腹囲を測る専用メジャーも提供された。自分で測るための機能を備えたスグレものだ。
「これを食事の計画にしましょうか?」
保健婦はシートに書き込みながら私の意思を再確認、その気にさせる。①食べる順番を野菜からにする。②よく噛む。(三十回目標)そういえばテレビのニュースで、元気なお年寄りの多い県の特集をやっていたのを思い出す。おじいさんもおばあさんも、とにかくよく噛む。見ている方がじれったくなるほど、とにかくくちゃくちゃと噛む高齢者の顔が印象的だったのをまだ忘れていない。③野菜を多く取る。常識的な方向性だ。
「約束ですよ」
心地よく響く保健師の言葉に何度も頷いた。
運動の計画として、腹筋体操を進められた。そしてウォーキング教室への誘いも。保健師は常に誠実さを失わず語った。
「次回は三か月後になります。メタボに効く運動と低カロリーで美味しく出来る料理の教室を予定しております。今日の教室にご参加頂いた皆さんには、ぜひぜひご参加してくださいね」
保健師の主任核の女性が、今日は楽しかったですねと言わんばかりに締めくくった。
「体重チェックシートだけは記入を忘れないでください。毎日チェックしてれば、何キロ減ったか一目瞭然で、皆様をやる気にさせてくれると思います」
担当保健師は私に宿題を課した。
夜、入浴前に体重計に乗った。骨密度が測定できる優れものである。デジタル表示のモニター画面に『六十九・二キロ』と出た。七十を超えていない。幸先が約束された数字だった。風呂を上がったらチェックシートに書き込んでおこう。
スーパーで食材を買った。定年退職以来、家の食事を担当している。買い出しもその一環だった。値引き品を漁って買う。野菜を多めに買いたかったが、まだまだ高値だ。ようやく白菜と大根、エノキ、マイタケの賞費期限切れ寸前を見つけた。30パーセントから半額近く値が引かれている。家に買い置きの玉ねぎと人参がある。野菜どっさり料理が出来そうだ。娘が顔をしかめて食べないかも知れない。彼女には惣菜を買って帰るかな。
野菜が主人公のちゃんこ鍋を作った。予想に反して娘や妻は喜んで食った。私の箸も進んだ。三十回噛まなければ……!。しかし三十回は容易ではない。そのうち何回か分からなくなった。馬鹿らしくて数えるのを止めた。
食後にコーヒーを飲みたくなった。冷蔵庫に缶コーヒーがある。でも駄目だ。三年前の保険健康指導で、糖分の入った缶コーヒーは減らす約束をさせられている。他の項目はケツ割りしてしまったが、不思議に缶コーヒー断ちだけはいまだに続けている。
一杯抽出型のレギュラーコーヒーを淹れた。砂糖とミルクの代わりに大匙一杯の酢を入れた。酢は血圧と血液サラサラに効果があると耳かじりの知識に従って始めた習慣だった。他に糖尿病予防に米のご飯は禁物と、これも耳学問で実行中である。
健康診断の結果票を開いた。もう二桁の回数は見直した。しかし数値は変わらない。『
要医療』の活字は必ず目に入る。もう保健指導だけではどうにもならないかも知れない。
駐車場に付随したトイレで用を足した。洗面台の鏡を覗き込むと、丁寧に頭髪を撫でつけた。白髪が乱れたサマは他人様に見せられたものではない。(もう六十五だもんな……)真っ白になった髪をしみじみと眺めた。指を櫛代わりに何度も梳いたので、何とか気にならない程度に戻った。鏡の自分ににやりと合図した。
ズボンのズレを直すと、ポンと腰を叩いた。これで用意万端である。
トイレを出ると駐車場から見通せる時計台に目を向けた。目的の健康福祉会館まで十五分もあればラクラク到着する。慌てる必要もない。前もって通知されている時間まで三十分近くある。行き交う車の多い通りを横目に散歩気分である。ゆっくりと足を進めた。
もう冬は目の前だ。冷たい風が顔に当たる。せっかく整えた頭髪が、またハラリと乱れ始めた。(やれやれ……もう…)ため息が口をついて出た。まあいいか。もとより身だしなみを気にする性格でもない。(俺ってB型人間だからな)ガサツな自分をいつも自己弁護する際の決まり文句を頭で反芻した。
健康福祉会館の一階ロビーは閑散としていた。館内に無料の入浴施設があってかなりの利用があるはずだが、まだ営業時間前なのだろう。
案内ボードを探した。事務所の手前にあった。本日の利用案内の項目に『にこにこ健康教室』がある。ポケットからチラシを取り出した。『からだスッキリ教室のご案内』とある。名称が少し異なっているが、他に健康教室の表示は見られない。たぶんこれで間違いないだろう。
ロビーの突き当りに階段がある。『にこにこ健康教室の会場は二階にお上がりください』の掲示スタンドが立っている。まだ不安は残るが、たぶんこの教室だろう。
二階はまるでシティホテルを思わせる広々としたロビーになっていた。左に向かうと、そこに貼り紙があった。どうやら、目的の会場らしい。観音開きのドアが開け放されている。ソーッと覗くと、広い室内を五人の女性が立ち働いていた。並べた長テーブルにコピーした資料と小冊子を配っている。
いくら注意して見直しても、男性の姿は見当たらない。(これは……?)と逡巡した。と言ってもスゴスゴ帰るわけにはいかない。
「すんません」
入り口近くのテーブルを用意していた女性が振り返った。
「あの……ここ、メタボの……」
「ええ、そうですよ。どうぞ入って下さい」
「あ、どうも」
部屋の中にいた若い女性が気づき会釈した。名前を告げると、別の女性と代わった。
「今日は齋藤さんの担当をさせて頂きます、保健師の○○です。よろしくお願いします」
「あ?どうも……よ、よろしく……」
社交性が欠けた性格である。特に女性との会話は苦手だ。別に相手が特別視してくれるはずもないのに、妙に意識してしまう。
テーブルに案内されて、ちょっぴり戸惑いながら座った。目の前に広げられた資料本を見て、ここに足を運んだ理由を思い出した。本の題名は『保健指導ツール 朝晩ダイエットでスマートライフ』添えられた言葉が「自分に合った減量法をみつけよう」だった。
二か月前に集団検診を受けた。その結果はメタボリックシンドローム(内臓脂肪症候群)の予備軍。すぐ市の健康課から電話で、特定保健指導教室の参加を促された。検診結果の数字を気に病んでいたので、参加と即答した。
実は三年前にもメタボ教室へ参加している。最後まで続かず中途半端な形で終わってしまった。今回は敗者復活戦だ。
部屋にいるは高齢者仲間と思しき男性ばかり四人。教室の指導スタッフがやたら多い。
看護師に血圧を測られた。続いて身長体重の測定だ。最後が腹囲。メタボを最も自覚するポッコリおなかをメジャーで図られる。自然とおなかが引っ込んだ。
「それじゃ正確に測れませんよ。はい、力を抜いて」
看護師は手慣れた笑いをくれた。
メタボ教室は始まった。担当の保健師とマンツーマンで面接シートを埋めていく。さすがに保健指導のプロ。巧妙に会話を弾ませ、必要なデーターを引き出す。
「何年か前にも参加したんやけど、結局ケツ割りしちゃって……」
口を滑らせてしまった。ハッと気づき、恥ずかしさで顔が赤くなる。
「ちゃんと齋藤さんの資料は残ってますよ」
保健師の言葉に緊張が解けた。どうやら何もかも承知済み。
次は参加者個々に沿ったメタボ脱出方法の検討に入る。自分に必要なエネルギーを知ることから始める。体格指数と理想体重を計算式で求めた。計算上、理想体重より重く、やせる必要があった。
「この模型を持って、重さを当てて下さい」
若い栄養士だった。彼女が参加者に手渡したのは、脂肪をかたどったもの。一番大きいものはかなり重い。それが三キロ、中のものが二キロ。最も小さいものは一キロだった。その脂肪をなんとか減らして減量しなければならない。食材のカロリー数値を説明された。少し興味を引かれる。
保健師の助言を受けながら、メタボ改善を進めるための自己目標を定めた。三か月後の減量目標二キロ。一日七十八キロカロリーを減らせばいい勘定になる。
「無理なお願いはしませんが、このシートに書きはった目標は何とかやり遂げましょう」
保健師の鼓舞に頷いた。彼女に任せればいい。そうでなければ、ダイエットなど自分の意識だけで続かないのは体験済みだ。今回は最後までやり遂げる。そのために保健師と約束するのだ。目標ができれば何とかなる。
体重チェックシートを眺めた。三年前に途中挫折したヤツだ。朝と夜、体重計に乗る。毎日だと簡単なようで難しい。腹囲を測る専用メジャーも提供された。自分で測るための機能を備えたスグレものだ。
「これを食事の計画にしましょうか?」
保健婦はシートに書き込みながら私の意思を再確認、その気にさせる。①食べる順番を野菜からにする。②よく噛む。(三十回目標)そういえばテレビのニュースで、元気なお年寄りの多い県の特集をやっていたのを思い出す。おじいさんもおばあさんも、とにかくよく噛む。見ている方がじれったくなるほど、とにかくくちゃくちゃと噛む高齢者の顔が印象的だったのをまだ忘れていない。③野菜を多く取る。常識的な方向性だ。
「約束ですよ」
心地よく響く保健師の言葉に何度も頷いた。
運動の計画として、腹筋体操を進められた。そしてウォーキング教室への誘いも。保健師は常に誠実さを失わず語った。
「次回は三か月後になります。メタボに効く運動と低カロリーで美味しく出来る料理の教室を予定しております。今日の教室にご参加頂いた皆さんには、ぜひぜひご参加してくださいね」
保健師の主任核の女性が、今日は楽しかったですねと言わんばかりに締めくくった。
「体重チェックシートだけは記入を忘れないでください。毎日チェックしてれば、何キロ減ったか一目瞭然で、皆様をやる気にさせてくれると思います」
担当保健師は私に宿題を課した。
夜、入浴前に体重計に乗った。骨密度が測定できる優れものである。デジタル表示のモニター画面に『六十九・二キロ』と出た。七十を超えていない。幸先が約束された数字だった。風呂を上がったらチェックシートに書き込んでおこう。
スーパーで食材を買った。定年退職以来、家の食事を担当している。買い出しもその一環だった。値引き品を漁って買う。野菜を多めに買いたかったが、まだまだ高値だ。ようやく白菜と大根、エノキ、マイタケの賞費期限切れ寸前を見つけた。30パーセントから半額近く値が引かれている。家に買い置きの玉ねぎと人参がある。野菜どっさり料理が出来そうだ。娘が顔をしかめて食べないかも知れない。彼女には惣菜を買って帰るかな。
野菜が主人公のちゃんこ鍋を作った。予想に反して娘や妻は喜んで食った。私の箸も進んだ。三十回噛まなければ……!。しかし三十回は容易ではない。そのうち何回か分からなくなった。馬鹿らしくて数えるのを止めた。
食後にコーヒーを飲みたくなった。冷蔵庫に缶コーヒーがある。でも駄目だ。三年前の保険健康指導で、糖分の入った缶コーヒーは減らす約束をさせられている。他の項目はケツ割りしてしまったが、不思議に缶コーヒー断ちだけはいまだに続けている。
一杯抽出型のレギュラーコーヒーを淹れた。砂糖とミルクの代わりに大匙一杯の酢を入れた。酢は血圧と血液サラサラに効果があると耳かじりの知識に従って始めた習慣だった。他に糖尿病予防に米のご飯は禁物と、これも耳学問で実行中である。
健康診断の結果票を開いた。もう二桁の回数は見直した。しかし数値は変わらない。『
要医療』の活字は必ず目に入る。もう保健指導だけではどうにもならないかも知れない。