老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

1110;死の恐怖

2019-05-16 09:03:14 | 生老病死
の恐怖

90才を越えた木舟婆さんは
在宅訪問をするたび
「早く死にたい~」と話すも
翌日、クリニックを受診し薬をもらってくる。

老い そして病み
その先は “死”が待つ。

にんげん穏やかに死んで逝きたい、と思う。
死を考えるとき
志賀直哉の小説『城崎温泉にて』を思い浮かぶ

生きている、死の迎え方
生死は裏表にあり、生死は一つになる。

志賀直哉は城崎温泉で、三つの死に遭遇した。
蜂は、寂しいが静かな死であった。
鼠は、首に串が刺さり、石を投げられて必死に逃げ 惑っている。
イモリは、筆者が驚かしてやろうと、小毱ほどの石を手に取り投げた。
その石がイモリに当たり死んだ。

最期は蜂のように静かな死でありたい。
イモリは予期せぬ死であり、死ぬときは心の準備が欲しい。
鼠は悲惨な死だけに、余計に死の恐怖が募る。

いずれの死に方であっても、
死んだら自分という存在は無くなる。
時間が過ぎ行くにつれ
自分という人間は忘れ去られる。
そのこと自体が、死に対する恐怖なのかもしれない。

いま、生きている
存在している自分に〝感謝〟する。
小さな三つの生命(蜂、鼠、イモリ)から
生死を考えさせられた。

死は他人事ではなく、
極めて個人的な事なのかもしれない。