(気兼ね)
精神的に、人は弱いものである。
数日前に左歯茎が腫れて痛んだので、
近所の歯科医を訪ねた。
診察してもらう前に、診察してほしい内容と、
病歴と現在服用している
薬剤の記入を要請された。
病歴は悪性リンパ腫、狭心症、糖尿病。薬剤はそれに対応する薬で、
医師から見れば、あまり感心できるものではない。
診察して歯科医が言うには、
「歯茎を切開してしまえば簡単に症状を軽く出来るのですが、
病歴が病歴ですので、現在掛かっているところで、
診てもらってください。
そちらに病歴の資料がありますから、
切開の可能性を判断できるでしょう。
OKがでれば、その病院で切開するもよし、
私どもで切開も出来ますので、
またお出でいただいても結構です。」と。
「三年間生存率 30%」を宣告されて、
もう四年目が過ぎようとしている。
ガンはいつ再発するのか分からないが、
三年経過したときから、
いつも頭の底に再発の恐怖がある。
ちょっとした風邪で頭が少し痛いとき、
便秘が一日長い時、
お腹を触ってしこりがある時、
ガスが溜まっているだけなのに少しお腹が痛いとき、
すぐガンの再発ではないかと、恐れおののく。
人の心は弱いものである。
毎月一回ガンの定期健診があるが、先月も問題なかった。
冗談交じりで「あと十年は生きたいですね」と話したら、
生真面目な先生はにこりともしないで、
「それは無理でしょう」という。
お世辞にでも、
(摂生すれば可能性がありますよ)
くらい言ってほしいのが患者の立場だ。
それだけにほんのちょっとした
事でも、すぐガンの前兆ではないかと考えるのが人情というもの。
だから歯茎が腫れたって、
すぐ頭に浮かぶのが(ガンの再発か?)
と考えるのも当然というもの。
どうしてかというと、
ボクがガンで入院する半年前に、
カミさんの従姉妹の亭主が、
口腔ガンに罹り、半年入院していた。
その従姉妹の亭主が、
三年半後の今年の夏にガンが再発して亡くなったから、
余計感じやすくなっている。
先日、その従姉妹と昼食をともにする機会を得た、
カミさんと同席で。
彼女は、以前より髪を短くし、
亭主が健在なときより表情が明るくて、
目が輝いていた。
カミさんとの会話の中に、
「主人が亡くなって、何の気兼ねもする人が居ないので、自分の
好きなことが出来る」って言葉があり、
ボクの気持ちに引っかかった。
「この12日から二週間パリにいる娘のところへ行ってくるの」とか、
「携帯電話を買い、友達とメールのやり取りをし、
昼食の約束をしたり・・・」とか言っている。
何十年も連れ添った亭主にさえも、
彼女は気兼ねをして自由に振舞えなかったのだ。
確かに、夫婦というのは、
お互い好き勝手なことを言っていると、
意見が食い違ったところで衝突が起きるから、
ある程度のところでお互い妥協している。
言葉を変えれば気兼ねしている。
男と女とどちらが多く気兼ねしているかといえば、
両方きっと同じであろうと思う。
夫婦の力関係や人柄によって、気
兼ねの度合いは異なるに違いない。
また、懐の大きい人は、気兼ねを懐にしまいこんで、
気兼ねを気兼ねとも思っていないに違いない。
懐の狭い人は、ちょっとした気兼ねでも、
大きな負担に感ずることだろう。
男女どちらが沢山気兼ねをしているか、
どちらとも決めかねる事柄である。
一ついえることは、
沢山気兼ねしている人の連れ合いは、
気持ちよく毎日を送り、
気持ちよく毎日の仕事をこなしているに違いない。
気持ちよく毎日を送らせている当のご本人は、
気持ちよく送っている人の恩恵に浴しているのだから、
さらに幸せといえるだろう。
沢山気兼ねしている人とさせている人と、
どちらが幸せなのか分からないが、
夫婦と言うのは大なり小なりこんな関係で成り立っているのだろう。
気兼ねが無くなって、
ああしよう、こうしよう、
ときらきら輝き、大きく羽ばたいているように見える従姉妹も、
実は、目の前で、しきりに気を使っているボクのカミさんがうらやましくて、
ボク達と別れた後、
ポツンと一人になった時、
亡くなった亭主を思い出して、
ひそかに涙ぐんでいるのかも知れない。