(天台宗 真弓山 観世寺)
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(奥の細道【十一】黒塚)
安積山公園を後にして、福島県二本松市庁舎に向かう。
鬼婆のいたという「黒塚」を訪ねるためだ。
黒塚は真弓山観世寺にあるという。
市庁舎で地図をいただき、
「駐車場は黒塚前の(ふるさと村)に置くと良い」と教わる。
(安達が原黒塚のあるお寺)
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(真弓山観世寺本堂、右手に見える白い建物が宝物館)
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謡曲史跡保存会によれば、
(謡曲で名高い「安達ケ原」の鬼女縁起説は、
平安時代の平兼盛の歌、
「陸奥(みちのく)の安達ケ原の黒塚に
鬼こもれりと聞くはまことか」
鬼こもれりと聞くはまことか」
の詠歌を基として、その名は世に著(あら)われた。)と言う。
(平兼盛の歌碑)
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(白真弓如意輪観音堂)
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鬼婆の由縁について、そのあらすじを載せておく。
(ここの「鬼婆」はその名を「岩手」といい、
京都のある公卿屋敷の乳母であった。
永年手塩にかけて育てた姫の病気を治したい一心から、
「妊婦の生き胆を飲ませれば治る」という易者の言葉を信じ、
遠くみちのくに旅立ち、たどり着いた場所が、
この安達ケ原での岩屋であった。
木枯らし吹く晩秋の夕暮れ時、
伊駒之助(いこまのすけ)・恋衣(こいぎぬ)と名乗る若夫婦が一夜の宿をこうたが、
その夜、身ごもっていた恋衣がにわかに産気づき、
伊駒之助は薬を求めに出ていった。
老婆「岩手」は、待ちに待った人間の「生肝」を取るのはこの時とばかり、
出刃包丁をふるって、
くるしむ恋衣の腹を裂き「生肝」を取ったが、
苦しい息の下から
「私たちは小さい時、京都で別れた母を捜し歩いているのです。」
と語った恋衣の言葉を思い出し、恋衣が持っていたお守り袋を見てびっくり。
これこそ昔別れた自分のいとしい娘であることが分かり、
気が狂い鬼と化してしまった。
以来、宿を求めた旅人を殺し、生き血を吸い、肉を喰らい、
いつとはなしに「安達ケ原の鬼婆」と言われるようになり、
全国にその名が知れ渡った。
(宝物館にある鬼婆の什器)
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数年後、奥州安達ケ原で行き暮れた那智の山伏 東光坊祐慶の一行が
一つ家の燈火をしるべに宿を求めると、
女あるじは一旦は断るが、たってのの願いに山伏たちを家に入れ、
糸繰り車を回しながら定めなき身の上をかこち、
渡世の苦しさを嘆くが、
夜寒のもてなしに裏山に薪を拾いに出かける。
その時、自分の寝間をのぞくなと念を押す。
その言葉に疑いを持った能力は、
祐慶の目をぬすんでのぞき見をし、
おびただしい死骸に驚く。
能力の報告に驚いた山伏たちが逃げ出すと、
女は鬼女の本体を現わして襲い掛かる。
祐慶は背にする笈の如意輪観世音菩薩を念じ、
数珠をもんで一心に祈ると、
尊像は虚空はるかに舞い上がって、
一大光明を放ち白真弓で鬼婆を射殺してしまったという。
その後、東光坊の威光は後世に伝わり、
このあらたかな白真弓如意輪観音の功徳甚深なる利生霊験は、
奥州仏法霊場の随一と称する天台宗の古刹となり、
1260年に及ぶ今日までその名を遺したのであります。)とある。
(黒塚と言われる岩屋)
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(黒塚と言われる岩屋2)
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(岩屋の大きさ、高さが観音堂の屋根まである)
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恐ろしい伝説の所で、しかも秋の夜の話であるから、
芭蕉は「おくのほそ道」に
「日は山の端にかかりぬ。二本松より右にきれて、
黒塚の岩屋一見し、福島に宿る。」と簡単に書いている。
黒塚の岩屋一見し、福島に宿る。」と簡単に書いている。
曽良の旅日記では、長々と道のりから阿武隈川の舟渡しの状況から、
黒塚の場所、鬼をウズメシ所、観音堂まで、
書き込んでいる。
伝説とは言え、各所にいろんな話が残っているものである。
お寺の入口で拝観料をお支払いし、右手の宝物館に、
鬼婆のゆかりの品物が陳列されている。
1260年前の鬼婆が使用した遺品も保存されている。
左手に白真弓如意輪観音堂があり、
手前に鬼婆の岩屋がある。
ただ岩屋と書いたが、岩の大きさ、
屋根となる笠岩の半端でない大きさ、
阿武隈川岸にどのような自然現象で、
このような岩屋が出来たのであろうか。
伝説より、この岩屋がここにあること自体不思議でならない。
誰かが持ち運んだにしては、岩が大きすぎる。
伝説が生まれてもおかしくない岩屋である。
(岩屋の大きさ、高さが観音堂の屋根まである2)
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・大岩が 語る老婆の 花の色 hide-san
そんな悲劇の舞台を芭蕉は見て歩いたのでしょう。
昔は阿武隈川河畔の田んぼの中の、
辺鄙な
一軒家だったのでしょう。
今日は居酒屋で飲み過ぎました。
パソコンの画面が揺れ動いています。
今日はこれで失礼します。
応援ぽち
ボクも酒好きで、今まで酔いつぶれたことがありません。
「生酔い本性違わず」と云いますが、
どんなに飲んでも「酔って覚えていない」と言うのが信じられませんね。
「パソコンが揺れている」というのは解ります。
そんなときにコメントは避けるべきです。
什器は、展示するのもどうかと思いますね。