昨晩は 珍しく 二組だけでその二組とも 近江の人でした。
昔滋賀県民の歌というのがあって 比良の峰行く白い雲 機織る町に稲刈る村に 今日も平和の日は うらら 麗しの滋賀 明るき滋賀 というような歌詞だったと思いますが 少し間違っているかも知れません。
国鉄の草津駅から石山駅まで列車に乗って通いましたが そのころの 草津線は未だ蒸気機関車が 走っていました。
午後9時半ごろ石山発の 列車は 新潟の泊行きで 木製の椅子でした。
ひと駅だけだったので 座ることは ありませんでした ほとんど 列車の出口の所に乗っていましたが 中からは 北陸ナマリの会話がとぎれとぎれに聞こえて来て、とくに 「あのー」と間延びのした福井弁が聞こえて来ると、草津で降りないで 乗っていれば 福井へ帰れるのにと 思った事など 懐かしく 思い出して いました。
特に湖南地方の人に逢うと 昔からの知り合いの様な近しさを 感じてしまいます。
15歳から27歳までの青春時代。人間形成にも大きく影響しているものと 思われます。会社の社長は 西郷隆盛の孫ということで 鹿児島出身の人が多く、寮監は西郷吉之助氏の秘書をしていた人で 芯からの薩摩隼人でした、何年間か 寮監、寮長という立場で 薩摩隼人気質をすり込まれた気がします。
自分では、定義付けや理屈付けは したくありませんが、こうして 東山に一人で住んでいられるのも 寮監教えの影響の様な気がします。
昔滋賀県民の歌というのがあって 比良の峰行く白い雲 機織る町に稲刈る村に 今日も平和の日は うらら 麗しの滋賀 明るき滋賀 というような歌詞だったと思いますが 少し間違っているかも知れません。
国鉄の草津駅から石山駅まで列車に乗って通いましたが そのころの 草津線は未だ蒸気機関車が 走っていました。
午後9時半ごろ石山発の 列車は 新潟の泊行きで 木製の椅子でした。
ひと駅だけだったので 座ることは ありませんでした ほとんど 列車の出口の所に乗っていましたが 中からは 北陸ナマリの会話がとぎれとぎれに聞こえて来て、とくに 「あのー」と間延びのした福井弁が聞こえて来ると、草津で降りないで 乗っていれば 福井へ帰れるのにと 思った事など 懐かしく 思い出して いました。
特に湖南地方の人に逢うと 昔からの知り合いの様な近しさを 感じてしまいます。
15歳から27歳までの青春時代。人間形成にも大きく影響しているものと 思われます。会社の社長は 西郷隆盛の孫ということで 鹿児島出身の人が多く、寮監は西郷吉之助氏の秘書をしていた人で 芯からの薩摩隼人でした、何年間か 寮監、寮長という立場で 薩摩隼人気質をすり込まれた気がします。
自分では、定義付けや理屈付けは したくありませんが、こうして 東山に一人で住んでいられるのも 寮監教えの影響の様な気がします。