御所ケ原に 電燈が点いたのは、昭和29年9月。
勝山市が誕生した年です。
囲炉裏端での集合写真は、昭和31年正月3日と裏に書かれています。
今から58年前の写真です。
お客さんは、大阪市交通局の人となっています。
家族は、曾祖父母、祖母の姉、妹、父母、私、弟、妹が3人。
3番目の妹は、30年8月生まれで、母に抱かれています。
囲炉裏のヒアマには、行灯が二つ、ぶら下がっています。
未だ民宿という呼ばれ方はしていませんでした。
お客さんが 多いときには、30名ぐらい無理やり
泊まりこみ、どうやって、寝たり、食事をしたり
していたのか、不思議に思います。
煮炊きは、全て囲炉裏でしていたのですから、
祖母や母は大変だったろうと 思います。
それでも、沢山の人々が遠く 関西の方から
やって来てくださいました。
家の前に立っている3人は、白いベレー帽をかぶったのが
若き日の 池田欣也氏、当時は、観光課の課長だったと思います。
真ん中が、山の関係の人なら知らない人はいない、
上杉喜寿先生、端っこが 父源野茂男です。
春山スキーの写真は、こつぶり平らから、白山を眺めている写真です。
勝山市が誕生した年です。
囲炉裏端での集合写真は、昭和31年正月3日と裏に書かれています。
今から58年前の写真です。
お客さんは、大阪市交通局の人となっています。
家族は、曾祖父母、祖母の姉、妹、父母、私、弟、妹が3人。
3番目の妹は、30年8月生まれで、母に抱かれています。
囲炉裏のヒアマには、行灯が二つ、ぶら下がっています。
未だ民宿という呼ばれ方はしていませんでした。
お客さんが 多いときには、30名ぐらい無理やり
泊まりこみ、どうやって、寝たり、食事をしたり
していたのか、不思議に思います。
煮炊きは、全て囲炉裏でしていたのですから、
祖母や母は大変だったろうと 思います。
それでも、沢山の人々が遠く 関西の方から
やって来てくださいました。
家の前に立っている3人は、白いベレー帽をかぶったのが
若き日の 池田欣也氏、当時は、観光課の課長だったと思います。
真ん中が、山の関係の人なら知らない人はいない、
上杉喜寿先生、端っこが 父源野茂男です。
春山スキーの写真は、こつぶり平らから、白山を眺めている写真です。