大山古墳の周辺にある陪冢めぐりもやっとこさ半分ぐらいになった。ちょうど後円部側の北に中央環状線に架かる歩道橋があったのでもしやと思い、歩道橋に登ってみるも、残念ながら主墳の頂上がちょっと見えたぐらい。大きすぎて大山古墳の全容が見えない。難しいなあ。
この歩道橋のある場所から少し西側へ行ったところの3重目の濠の内側に、大安寺山古墳と同様に第2堤に重なる形で茶山古墳がある。
茶山古墳については、宮内庁より、仁徳天皇陵の域内陪冢(甲号陪冢)として管理されている。ちなみに現状の規模としては直径55m、高さ8mの円墳となっている。
茶山古墳の名称のいわれとしては、昔、豊臣秀吉が大山古墳で狩りを行ったときに仮の居所を構えたところを茶屋山と呼んだことに由来するそうだ。
この古墳のあるあたりから3重目の濠の幅が徐々に広くなり始める。水深も深くなっていくようになる。
この茶山古墳のあるあたりから中央環状線を挟んで、向かい側に永山古墳がある。
せっかくなので横断歩道を渡って、古墳に近づいてみることにする。永山古墳については、墳丘が仁徳天皇陵の陪冢(と号陪冢)として宮内庁が管理している。以前は西側の周濠の部分が釣り堀となっており、なかなか古墳の姿を眺めるには適していない環境にあったのだが、近年、堺市が釣り堀の立ち退き請求を起こし、無事、立ち退きに成功。釣り堀がなくなった周濠と墳丘の様子は、百舌鳥古墳群の中でも有数の美しい古墳の姿が望めるものとなっている。
永山古墳は、前方部を南に向けた前方後円墳であり、墳丘長は100m、後円部直径は63m、高さ10.3m、前方部幅68,5m、高さ10.3mとなっており、その墳丘の周りを盾形の周濠が巡っている。
ただし、古墳の後円部から東側の周濠は埋め立てられている。ちなみに永山古墳は、仁徳天皇陵の陪冢として管理されている関係上、発掘調査がなされていず詳しいデータがない状態である。
古墳の規模からして、なかなか仁徳天皇陵の陪冢としてはなかなか考えにくいという話もある。江戸時代には日本武尊の墓という伝承もあったようだ。
古墳の築造時期は、5世紀の初めごろか中ごろと言われているが、あまり根拠がなさそうである。
現在、百舌鳥古墳群の中では、比較的形が整っており、周濠も豊かに水をたたえている秀麗な古墳の一つである。百舌鳥三陵を訪れた際には、ぜひとも見ておきたい古墳ではないかと思う。とにかく、釣り堀がなくなって、見ごたえのある古墳になったよ。
この歩道橋のある場所から少し西側へ行ったところの3重目の濠の内側に、大安寺山古墳と同様に第2堤に重なる形で茶山古墳がある。
茶山古墳については、宮内庁より、仁徳天皇陵の域内陪冢(甲号陪冢)として管理されている。ちなみに現状の規模としては直径55m、高さ8mの円墳となっている。
茶山古墳の名称のいわれとしては、昔、豊臣秀吉が大山古墳で狩りを行ったときに仮の居所を構えたところを茶屋山と呼んだことに由来するそうだ。
この古墳のあるあたりから3重目の濠の幅が徐々に広くなり始める。水深も深くなっていくようになる。
この茶山古墳のあるあたりから中央環状線を挟んで、向かい側に永山古墳がある。
せっかくなので横断歩道を渡って、古墳に近づいてみることにする。永山古墳については、墳丘が仁徳天皇陵の陪冢(と号陪冢)として宮内庁が管理している。以前は西側の周濠の部分が釣り堀となっており、なかなか古墳の姿を眺めるには適していない環境にあったのだが、近年、堺市が釣り堀の立ち退き請求を起こし、無事、立ち退きに成功。釣り堀がなくなった周濠と墳丘の様子は、百舌鳥古墳群の中でも有数の美しい古墳の姿が望めるものとなっている。
永山古墳は、前方部を南に向けた前方後円墳であり、墳丘長は100m、後円部直径は63m、高さ10.3m、前方部幅68,5m、高さ10.3mとなっており、その墳丘の周りを盾形の周濠が巡っている。
ただし、古墳の後円部から東側の周濠は埋め立てられている。ちなみに永山古墳は、仁徳天皇陵の陪冢として管理されている関係上、発掘調査がなされていず詳しいデータがない状態である。
古墳の規模からして、なかなか仁徳天皇陵の陪冢としてはなかなか考えにくいという話もある。江戸時代には日本武尊の墓という伝承もあったようだ。
古墳の築造時期は、5世紀の初めごろか中ごろと言われているが、あまり根拠がなさそうである。
現在、百舌鳥古墳群の中では、比較的形が整っており、周濠も豊かに水をたたえている秀麗な古墳の一つである。百舌鳥三陵を訪れた際には、ぜひとも見ておきたい古墳ではないかと思う。とにかく、釣り堀がなくなって、見ごたえのある古墳になったよ。
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