「奈良市北部の古墳をあるく」もやっと最終章。聖武天皇陵と仁正皇太后陵を取り上げることにする。実は、聖武天皇陵などについては、何回かこのブログで取り上げているのだが、一連のシリーズでもあるので、取り上げることとしたい。
聖武天皇陵は、正式には奈保山南陵といい、仁正皇太后陵は、奈保山東陵という。これまでも書いてきたが、奈良時代の、とりわけ前半は、この聖武天皇まで、どうやって皇位をつないでいくのかということが大きな政治課題であったと思われる。
そして、聖武天皇は、724年に元正天皇の譲位を受けて、平城宮にて23歳で即位した。聖武天皇の在位の間、長屋王の変や藤原広嗣の乱といった戦乱、あるいは天然痘の大流行など社会不安や混乱がもたらされている一方で、聖武天皇の在位期間の年号である天平文化と呼ばれる奈良時代の文化、芸術のピークを迎えた時代でもあった。ちなみに仁正皇太后は、光明皇后のことである。
こうした聖武天皇は、748年、47歳で崩御、そののち奈保山に埋葬された後、東大寺による祭祀がなされてきたが、陵前に眉間寺というお寺が建てられ、明治時代に至る。
こういった経過を考えると、この場所が、聖武天皇の墓所と言えそうなのだが、実は、そうとも言えなさそうなのである。確かに聖武天皇の域内には、横穴式石室を持つ古墳が一つ確認されており、法蓮北畑古墳と呼ばれている。絵図などを見ると、横穴式石室が露出しており、奈良時代のものとは言えそうにないのである。聖武天皇は、元明、元正天皇と違い、死後火葬はされなかったようなのだが、横穴式石室はちょっと違うだろうなあと思う。
奈良時代の天皇や貴族がどのような形で埋葬されたかははっきり言ってわかっていない。飛鳥時代とかと違い、薄葬であったことは間違いなさそうである。
ちなみに、隣の仁正皇太后陵は、古墳ではなさそうで、奈良県の遺跡地図を見ても、松永久秀が築いた多聞城の一部であるとされている。
写真で見ると結構地面が露出しているが、古墳という感じではない気がする。
航空写真などを見ると、聖武天皇陵と仁正皇太后陵の間に堀切が見ることができる。
ただ、聖武天皇陵と仁正皇太后陵があるは、訪れる人も少なく、閑散としたいい、趣のあるいい雰囲気の所なので、何度も訪れてしまう。(笑)
さて、聖武天皇の陵前にあったとされる眉間寺はどうなったかというと、明治時代に入ると廃仏毀釈のあおりを受けて、廃寺となり、本尊の仏さまは東大寺に伝わることになった。
そして、眉間寺があった場所については、おそらく現在聖武天皇陵の域内の中に取り込まれているようである。
聖武天皇陵がある丘陵の西隅に、眉間寺跡と書かれた石碑があり、いくつかの石を並べたポケットパークがある。
正直、ここにあったのかは不明である。
礎石らしい石は置かれているけどね。
背後から見た聖武天皇陵、この丘のどこかに聖武天皇が眠っているのかもしれない。本当の所はわからないとしか言えなさそうである。
それでも、石室があることは間違いなく、ということはどこかの誰かが埋葬されていた。もちろん聖武天皇かもしれないものの…皇太后の古墳もどきといい、なかなか興味の湧くところですね。一度行ってみたいです。