WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

Somethin' Else(加筆)

2011年01月05日 | 今日の一枚(C-D)

●今日の一枚 297●

Cannonball Adderley

Somethin' Else

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 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いしたします。

 年末はTVでバスケットボール三昧だったが、お正月は箱根駅伝に釘づけだった。おかげでこの年末年始は、かなりゆっくりした時間を過ごすことができた。テレビの前でゴロゴロしている世帯主の姿は家族にはかなり不評だったようだが、こんなにリラックスした休日は本当に久々だ。

 今日の一枚もこれで#297、あと3枚で300枚になる。はじめる前は1000枚などすぐだなどと漠然と考えていたのだが、日常生活に追われて更新は遅々として進まず、また生来のサボりぐせから長期休止状態となったことなどもあり、この始末である。ただ、いつしか10万ヒットも超え、ちょっとは駄文を読んでいただけるようになった。もちろん、その多くは「一瞥」であろうが、ちゃんと読んで下さる方々も少なからずおられるようで、陰に陽に、メールやコメントをいただくこともある。本当に嬉しい限りである。

 さて、今日の一枚だ。超有名盤、キャノンボール・アダレイのBlue Note 1958年録音盤『サムシン・エルス』である。キャノンボール名義のアルバムであるが、サウンドはマイルス・デイヴィスのものである。例えば、「いーぐる」の後藤雅洋さんが、「『サムシン・エルス』はキャノンボール・アダレイのアルバムではない。ジャケットに名前が大きく書かれていても、このアルバムの実際のリーダーは、キャノンボールではなく、マイルスなのである。疑問に思うなら、このアルバムの目玉、『枯葉』を聴いてみればよい。この曲のムードを決定するおいしいフレーズは、全部マイルスが吹いているから……」(『新ジャズの名演・名盤』講談社現代新書)、と記す通りである。私もまったく同感で、私にとってはマイルスを聴くためのアルバムであり、クールでスタティックな作品というイメージをもっていた。

 今日、昼飯を食べたラーメン屋で、偶然、「枯葉」がかかっていた。Jazzを流すラーメン屋なのだ。このアルバムをよく聴いていたのは、ジャズを憶えたての学生時代、もう30年近く前のことである。そういえば、久しく聴いていない。しばらくぶりに聴いた「枯葉」は、随分違う印象だった。鈍くさいと思っていたイントロが、意外なことに、ファンキーでかっこよく感じられた。テーマはもちろんマイルスのサウンドそのものだが、キャノンボールのアドリブも決して負けてはいない。いつになく、のびやかで艶のある音色だ。なによりよく歌っている。かっこいいサウンドだなあ。それが、私の感想だった。これまで、このアルバムについて、いいアルバムだとか、心にしみるアルバムだとか思ったことはあるが、かっこいいアルバムだとは思ったことがなかったのだ。仕事をおえて帰宅し、早速LPを引っ張り出して全編を通して聴いてみた。そのサウンドはこれまでとはまったく違った輝きをもって私に迫ってきた。何というか、今までの印象より、ずっとファンキーな色合いを感じる。マイルスが参加していない、B-③ Dancing In The Dark なんていいじゃないか。

 「このレコードは大金主義の近代的装置で聴いてはいけない。CDもダメ。ミュート・トランペットが唾とともにビャーッと飛び出し、アルトが金切声をあげ、シズル・シンバルがガツンガツンいわなければ、演奏が面白く聴こえない。音とともにあるのだ。ぼくは旧式装置をもう一式欲しいと思っている。このレコードのために。」(寺島靖国『辛口!JAZZ名盤1001』講談社+α文庫)

 『サムシン・エルス』のレコードを聴きながら、たまたま側にあった文庫本のページをめくっていたら、そんな文章にであった。寺島靖国さんに賛成……!。本当はそういうアルバムだったのではないだろうか。

[付記]

 このアルバムの成り立ちについて、中山康樹『マイルス・ディヴィス 青の時代』(集英社新書:2009)は、次のようなエピソードを掲載している。

「このアルバムは、不遇時代に録音の機会を与えてくれたブルーノートのプロデューサー、アルフレッド・ライオンに対する感謝の念からマイルス自身が持ちかけ、しかしながらCBSコロンビアとの契約上、自らがリーダーとなることは不可能、そこで一計を案じてキャノンボールを名義上のリーダーとして吹き込まれた。」(p189)

 ただし、内容については、同じく中山康樹氏の『マイルス・デイヴィス ジャズを超えて』(講談社現代新書:2000)は、次のように記している。

「もっとも、マイルスが実質上のリーダーだったとはいえ、あくまで特例的なセッションであり、1958年当時のマイルスの音楽性が反映されたものとはいいがたい。」(p86)