今朝のニュースで指の先が切断された配達員の話題をやっていた
昔、勤めていたところが形成外科で有名な病院で
リハビリの患者さんも必然、形成外科術後の方が多かった
昔は印刷会社などの工場機械の安全管理や安全装置が現在ほど進んで無くて
機械に指を挟んで切断される方が多かった
中には2回目3回目、はたまた8本の指を一度に切断された方も数名いた
手の指が足らなくなって足の指を切って手の指に繋いだ方もいた
繋がったからと言って前と同じように関節が動くかと言うと動かないよね
その頃、住んでいたアパートの隣に平屋の借家があって父子家庭の親子が住んでいた
お父さんが僕のリハビリの患者さんだったので仲良くなって
その頃、小学生のキヨシ(仮名)と言う息子とも親しかった
キヨシはかわいい子だったけれど、頭は悪かった中学生の頃からグレだして
一度なんか僕の当直の晩に盗んだオートバイで事故を起こして病院に運ばれてきて
事情聴取に来たおまわりさんに
「またおまえか!昼間万引きで捕まえたばかりじゃないか!」
とか言われていた
キヨシは中学を出てからふらふらしていたけど案の定‘やくざ,の世界に入った
それからしばらく家で見かけなかったけど何年かして病院でみつけた
まだ病院の診療時間内で青い顔をして兄貴分らしい付き添いが付いていた
見かけた僕が
「キヨシどうしたんだ」と聞くと
「指・・詰めたんです」
「ええっ!」
「それで詰めた指・・どうしたんだ?」
「ズボンのポケットに入ってます」
「そらあかん!形成の先生に頼んでやるから早く繋げんと」
キヨシが振り返って兄貴分の顔をみたら兄貴分の付き添いが顔を左右に振った
キヨシが組を抜けたいと言ったら指を詰めさせられたみたい
昔は仕事でも組抜け?でも指を無くす人がけっこういたけど
現在はあんまり聞かないな
指詰めて貰うより看板代払うてもろた方がええもんな
パソコンの隣に置かれた古い国語辞典
たま~に開いて漢字を調べます。
辞典の巻頭を開くと昭和41年と書かれています。
何と私はこの辞典を小学校の時から使っているんです。
実家を離れて40年以上もう還暦は過ぎて
その間、大阪から東京に住まいも何か所か変わっても
この辞典だけは離さず持って来たんですね
それも未だに現役で役立っているって
辞典の値段は幾らしたかもう知らないけど
元は取りすぎやろ
もう釜ヶ崎も40年以上前の事で街の様子もすっかり忘れてしまったが
ただ町中が小便臭かったのを鮮烈に覚えている
何年か前にストリートビューで釜ヶ崎の現在の町の様子を見てみたら
今でも真っ昼間に立小便をしているおっさんが映っていて笑ってしまった
1980年釜ヶ崎
一つ年上の土方の先輩に吉田がいた
吉田はいつもえらそうにしていて根性なしの癖に背中に入れ墨を入れていた
それにどこやらの組の事務所に出入りしていてそこの親分に盃を貰うたと言っていた
先輩土方連中にもタメ口を聞いていて嫌われもんだったけど
吉田は物心ついた時にはもう土方をしていてエリート、土方界の市川海老蔵だ
小さい頃からのモッコ担ぎとブロック積みで鍛えた馬鹿力は侮れなかった
よその子供が学校給食を食べてた頃、吉田はもう飯場の飯を食べていた
だからかどうか分からないが危険を察知する能力が高くて
こりゃもめ事が起こりそうやなと言う時、いつの間にかすっといなくなっていた
「ボス(親分)がわしの事かわいがってくれてな、いつでも正組員にしたる言うねん」
吉田は頭が足りんアホやからいい気になって言うていたけど
それなりの親分になるような人は頭が良かった
吉田は案の定、誰ぞの身代わりに豚箱に入れられた
副監督格に成田さんがいた
この人も性格がこすからかった
毎日、仕事が始まる前に社員の奢りで喫茶店でモーニングサービスを食べるんだけれど
たかだか数千円のおごりでえらいふんぞり返っていた
「ひろ造、わりゃ役に立たんわりにパン旨そうに食うやんけ」
「えらいすいません」
長椅子に腰を沈めて足を組んでたばこの煙吐きながら上から目線でわしに意見した
もう気分は仁義なき戦いの成田三樹夫に成り切っていた
成田さんは自慢話をよく言っていた
「昨日仕事帰りに天六のパチンコ屋でフィーバーを3回当ててなタクシイで家に帰ったんや」
「へえ~すごいですね、」
「わし近いうちにここの仕事辞めて独立すんねん」
「だいたい月にこれこれこんだけ儲かる計算や」
「へえ~こりゃまたすごいわ」
「そやから独立するにあたってお前とお前それにお前は雇うたる」
「ひろ造はいらん、お前はいつまでも釜ヶ崎で見張りをしとけ」
いつもこんな話をしていた
あの1980年頃パチンコ台のフィーバーが登場した
仕事が終わって現場で別れた土方仲間が帰りのパチンコ屋で皆揃った
もう空き台が無くて誰かの持ち金が無くなるのを待って並んでる状態で
パチンコ中毒者、破産者が続出した
1980年頃、釜ヶ崎の三角公園横の工事現場で土方見習いをした
公園には大勢の浮浪者がいて、皆寝転んだり端っこの方で固まってバクチをしていた
寝ている連中は皆、乾いた咳をしている人が多くて咳をしちゃ焼酎を煽っていた
その頃、釜ヶ崎のドヤ(簡易宿泊所)の住人の6割が結核に罹っていると言われた
あくる年、僕は東京の病院の呼吸器内科のTB(隔離病棟)で雑用をしていたけど
入院患者は皆、咳なんかしていなかった。
稀に重度で個室に隔離される新規の入院患者さんが咳をしていた
だからあの時に三角公園で咳をしていた連中はけっこう重度だったのに違いない
土方見習いには僕と同じように・・
「高給、簡単な軽作業」に吊られて同世代の連中が何人かいて
梅本、通称ウメと言う僕と同い年の男は夜間の関西大学の学生だった
(大学に通っている気配は無かったけど)
ウメとは気が合って土方を辞めた後、次のバイトも一緒に行った
長髪で久本雅美似のウメがある日僕に言った
「昨日、現場監督がわしのアパートに一升瓶持ってたんねて来てな、わしに正社員になれっちゅーんじゃ」
「そいでもってお前の事聞いたらあんな役立たず正社員になんぞ出来るかい!って言いよったで」
「いひひ!」と楽しそうに言った
5~6歳年上の吉岡さんがいた
吉岡さんは好人物でいつもニコニコしていた
でも吉岡さんはどこか暗いところがあって、聞くと前の職場で人身事故を起こして仕事を辞めたそうだ
世捨て人的な所があって最初の給料を貰うとウメや他のバイト何人かを誘って天六のスナックで散在して
一晩で給料を使ってしまった・・(後の生活どうするんやろ)
ウメに言ったら
「わしは知らんで、吉岡さんが奢ったるちゅーてわしボトルまで入れてもろたで」言うた
2歳上の社員に野本さんがいた
野本さんはシン〇ーを吸い過ぎで前歯が無くて笑うとかわいらしい顔をした
通称が‘歯抜け,だった
歯抜けの野本さんは手先が器用で博奕ばかりしていた
それでやくざにまで借金を作って一度やくざが現場まで取り立てに来た
弟分二人連れて来た弟分はまだジャージを着た部屋住み(やくざ見習い)だ
僕らは汚い作業着を着た(土方見習い)だ
「おお!歯抜け、あるだけ出さんかい!」
「わし今3000円しかおまへんねん、これが全財産ですぅ」
「あほんだら、無かったら誰ぞに借りんかい!おいお前、歯抜けになんぼか貸したれや」
っと僕に言うんで僕は
「僕ぅ30円しか持って無ぅて昼飯も食べられません」
言うたらやくざが
「ほんまにここは貧乏ったればっかりやな、しゃーないこいつらにコーシーでも買うてきたれ」
部屋住みを缶コーヒー買いにやらせて缶コーヒーを奢って貰った
歯抜けの野本さんは3000円とられて泣きながら缶コーヒーを飲んでいた
野本さんはその後何日かして蒸発した
この時期だいたい高校大学とも受験の合否が決まったみたいだね
僕も40年以上も前、2度目の受験に失敗した時・・・
(これはこまった、こまった)こまったちゃん状態だった
その頃の大学受験は現役合格の方が少なくて1年2年の浪人は普通だったんだけど
さすがに2度目も失敗となると3度目をあきらめざるを得なかった・・
けれどもまだ働きたくなかった、ぬるい状態でいたかった
大学で緩いサークルに入ってかわいい女の子をゲットする目論見がはずれた現実
この後の人生に何の夢も目標も持って無かったのでとりあえずのバイトを探した
その頃、まだページ数の薄いアルバイトニュースが大阪でも創刊された
確か100円だった
どうせなら一番時給が高いバイトを探した
時給が高いのに・・(簡単な軽作業)と書いてあった
(ほうほう一番時給が高いのに簡単な仕事やて)
人生初めての仕事先が西成の釜ヶ崎だった
釜ヶ崎がどんな所か知らんかった
仕事が土方の‘手元,だった
土方仕事も知らんかった
天六の商店街に近い南森町の事務所に面接に行ったら
横山やすしさんに似た監督が出て来て
「兄ちゃん、この仕事やっとことがあるんかいな?」って言うので
「ありません」って言ったら
「しゃー無いのぅ~まあ人もおらんし、あほうでも務まる仕事やから明日から来いや」
と言われて行った先が釜ヶ崎だった
今でこそ釜ヶ崎も綺麗になってyoutube何かのグルメスポットで取り上げられて
いろんな店で飲み食いしてるけど
1980年頃の釜ヶ崎って言ったら町中が小便臭くて
それに町中で写真なんか撮っていたらただじゃ済まなかった
土方現場は意味不明な単語が飛び交っていた
「あかん、あっか~ん、わしの手元は役に立たんわ~」
・・て先輩土方に言われて
大学に入っていたら落第していただろうけど土方仕事も2~3日で落第した
「あほ!ボケ!ひろ造はもう手元はやらんでええわ!今日からお前は見張りじゃ!」
と言う訳で現場労働から離れて現場の見張りになった・・
(今で言う警備員かな?でも釜ヶ崎の現場の見張りは車の誘導じゃ無くて・・)
(盗人と与太者を見張るけっこうシビアな役だった)
昼飯時に職人が誰もいなくなった現場を見張っていたら怪しいおっさんが近づいて来た
「兄ちゃん、ええ天気やなあ、日当なんぼ貰うとんねん?」
「えっ!4800円そりゃ安いわ、うちの飯場はこんだけ出すでぇ~」
5本の指を広げて見せられたど小指と薬指の先が無かったのでなんぼか分からなかった
そうこうするうちに先輩土方が昼飯から帰って来たので怪しいおっさんは引き上げた
先輩土方に聞くと怪しいおっさんは‘タコ部屋,のスカウトマンだそうだ
タコ部屋に入れられると博奕と借金で一生出られないそうだ
僕がそうだった・・
タコ部屋じゃ無かったけど土方を辞められなかった
その頃の僕は金が出来るとあればあるだけパチンコにつぎ込んでいつもスカンピンだったから
土方から逃げられなかった
それに土方仲間は結束が強かった
ひ弱な見張りの僕に地元の与太者が近づいたりしたら暗に与太者を威嚇した
その頃の土方は与太者より強かった
役立たずな僕でも横山やっさん似の監督はクビにしなかった
皆で一膳めしやに入ってガラス棚からおかずを取って
口に割り箸を咥えて左手を前ズボンに突っ込んだ時にゃ・・
(わしも一端の土方やな・・)
と悦に入ったりした
その頃、住んでいたのは学生専用のアパートだった
住人のほとんどは予備校生か大学生
その年、大学に受かった連中は恋に勉強におしゃれに人生を謳歌し
大学にすべった僕は土色の作業着と汚い安全靴を履いて一日中
(アホ!ボケ!)と海千山千のおっさん連中に怒鳴られいじめられていた
釜ヶ崎の三角公園はマグロ市場の光景のようにアオカン?のおっさん連中が寝転がっていた
皆、コンコンと咳をして元気な連中は焼酎を煽って
一日中ホラ話をして
たまに立ち上がって小便をして
僕はずっとその光景を眺めていて・・
(ええなあ~ラクそうやな、わしも土方やめて仲間に入ろうかな・・)
(ほやけんどここは臭いわ、それに冬はどないすんねん)
とか思いながら19歳の青春をあぶれもんのパラダイス釜ヶ崎で送っていた
お客様のまんじさん(90歳)の破れたダウンジャケットから出て来たダウンの羽
昔、道を歩いていたら空から白い羽が落ちて来た
これは吉兆だと思って財布に入れておいたんだけど
何の事は無い貧乏人の若者が着ていたダウンから飛び出したこれだったんだ
ふぅ~~
渋谷の東急百貨店いわゆる109が閉店したみたい
109では買い物をした事が無いけど
いまから40年以上前に上京した折に(2月頃)まだ入学予定の学校が始まって無いのに
渋谷センター街のパチンコに嵌ってしまい持ち金が無くなって
109の社員喫茶室のウェイターのバイトをする事になった
社員専用の喫茶室だから絶対に暇だと思った
仕事中に茶ぁ~してる社員なんてめったにおらんやろうと思ったんだけど
案に反してめちゃくちゃ忙しかった
僕のポリシーは「仕事はラクに限る」だったから
皆、同じような時給なんだからラクな方がいいと思った
109のバイトを2時間でやめた
僕のバイト人生で最短労働記録だな
数年前、両親共老人ホームに入所して誰もいない実家の正月に帰省して
郵便物を見てみたら兄宛ての年賀状が2枚ほど届いていた
送り主の住所を見てみると地元で無くて知らない日本海側の地名と関西の地名
きっと兄の大学時代の友人だろう
兄にも年賀状をくれるような友人がいたんだ
兄はその前の年に亡くなっていた
この友人の方は兄が亡くなった事を知らない
実家の兄とはほとんど話を交わしたことも無く
大学時代に何をしていてどんな友達がいたかなんて一切分からない
兄は生まれながら体に障害があって大学を出てからはひきこもりの様な生活を送っていた
両親が生活の面倒を見ていた
稀に不自由な体で山仕事を手伝ったりしていたみたいだけど
老いても両親は兄に仕事の強制はしなかった
兄の体の不自由なのは自分達のせいだと思っていたんだ
子供の頃はその障害を理由によくいじめられていて
僕はそのいじめをいつも見て見ぬふりをしてやりすごしていた
必然、家の中でも兄との会話は無くなった
兄が倒れたと言う連絡があった
救急搬送で隣の徳島の病院まで3時間かかった
都会の人は信じられ無いだろうけど過疎の町から脳外科のある病院まで救急車で3時間かかったんだ
助かる人も助からない
兄は植物状態になった
未婚だった兄に付き添う人とて無く高齢の両親には頼めない
姉と僕とで善後策を話し合ったが埒が明かない
その頃は二人とも仕事があって兄の事を押し付けあった
僕もたびたび仕事を休んで飛行機に乗り兄の入院や転院手続きに行かされた
心の底で・・
(何もこの俺に)
とベッドの上で物言わぬ兄を眺めて愚痴ってみた
結局1年半程病院をいくつかたらい回しにされた
そうせざるを得なかった
結局最後は高知の病院で亡くなった
死に際に間に合った
涙は出なかった
ふと思ったのは
兄の人生ってどうだったんだろう?
幸せだったんだろうか
そうじゃ無かったのか
亡くなったあくる年に兄に届いた2枚の年賀状を見つけて
けっこう人並みの人生を送ったんだと思って
何だかホッとした
実家は漁師とみかん農家を兼業していた。
みかんの方は主に爺さんが作り婆さんは洋服店を営んでいた
この時期になるとみかんの取入れで一家総出で働いた・・
と言えば聞こえが良いが子供たちはほとんど手伝わなかった
みかんを収穫すると農協に出荷せずほとんど自家で売りさばいた
その為見栄えの良いみかんを作るのに丹精した
肥料をふんだんにやり必要以上に摘果をし
それでうちのみかんはそれはもう他所で見た事が無いような立派なみかんだった
だから多く顧客が付いて
国道沿いに俄の店を開いて売りさばき固定客には宅配便で届ける
みかんの選定に袋詰め箱詰めと母親はいつ寝てるんだろうかと不思議に思った
働き者の両親に怠け者の息子
実家を離れてから母親からしょっちゅうみかんが送られて来た
箱の中にみかんの他に芋や干物それに幾らかの現金
現金はすぐにパチンコ屋に持って走り自家製の干物はすぐに悪くなり
みかんは小さい頃から食べ飽きてるんでほとんど食べずに腐らせた
「もう送って来んでもええ」と言っても
母親はせっせと送って寄こし
所帯を持って独立すると仕送りのみかんの箱は5~6個に増えて
母親は「近所にやりなさいお客さんにやりなさい」と綴ってあった
僕は億劫なのでいつもほとんどのみかんを腐らせた
両親も数年前に亡くなりみかんが送られてくる事も無くなった
最近、何故かスーパーに行くとみかんを買う
いっぱいあると食指が出ないけど無いとなんだか無性に食べたくなる
僕がスーパーで買うみかんは一袋数百円の安いみかんで
昔、実家で作られていたデパート向きの高いみかんは食べられない
1981年12月24日 京都四条河原町通りPM7時パチンコ屋を出た
「ちきしょう!あと100円か200円突っ込めば7が揃うたんやけど」
「種銭どころか帰りの電車賃までつぎ込んでしもうた」
「それにしても寒う・・そう言えば今日はクリスマスやな」
リンリンリン~♪ダンシンオーナイト♪言葉にすれば~♪
街にクリスマスソングと、もんた&ブラザーズの‘ダンシングオールナイト,が流れてた
比叡おろしが通りに吹きつけ雪こそ降って無かったが寒い寒いクリスマスの晩
安い革ジャンもどきの黒いジャンバーの襟を立て震えながら河原町をさまよい歩いた
木屋町の飲み屋から暖かい灯りが漏れ店の中から笑い声が聞こえた
「あの店の中は温うて美味しいもん食べてるんやろな」
「わし残金30円じゃ缶コーヒーも飲まれへん・・問題はどうやって大阪まで帰るかやな」
ふと見ると橋の手前に交番があった
「おまわりさん200円貸して貰えんやろか?」
「200円か・・しゃーないな・・やるわ!」
「ほんなわけに行きませんわ今日中に返しに来ます」
「そうか・・そしたら返してな」
四条大橋の上から鴨川を覗くと川面に湯気が漂っていた
(わしこんなんやロクな人生を送らんな)
(将来、どないなるやろ)
川の中に映った自分の顔の横に恐ろし気な幽霊が顔が並んだ
そうしたら川面に自分の小さかった頃の記憶が蘇った
英語にそろばん、習字に進研ゼミ、高い月謝で親は習い事をさせてくれたけど
どれもモノにならなかった。
学校では教師にいつも「あほう、あほう、このボケ」と蔑まされた
隣の幽霊の顔が変わった
川面に映った現在の自分
お金があるとパチンコ屋、無くなると母親に無心
仕事も勉強もやらず、毎日のんべんだらりと、バイトをやってもすぐクビに
また隣の顔が変わった
どこかの貧相なおっさんの顔に
おっさんに聞いてみた・・
「あなたは悪魔ですか?死神ですか?」
「わしか?わしは未来のお前じゃ!」
「えっ!未来の僕僕の未来はやっぱりホームレスか乞食ですか?」
「いや、貧乏は貧乏やけど乞食までは落ちへんな」
「ほんまですか?世間一般並みの未来ですか?」
「まあまあやな、なんとかなるもんや」
そうやって未来の僕の顔は消えて行った
もちろんそんな記憶も消えた
今日はさぶいね・・さっぶい、さっぶい
さっぶいよ、今月はもうクリスマスなんだから
クリスマス・・の思い出ってあんまり良い思い出って無いな
そもそも思い出って誰に聞いても嫌な思い出しか思い付かないそうだね
良い事ってすぐ忘れちゃう
虐めた事はすぐに忘れても虐められた事はずっと覚えてる
僕が小さい頃のクリスマスってまだプレゼントを貰う事なんて無い時代だったけど
それでも普段食べられない鳥のもも肉や安いショートケーキぐらいは食べられた
買って貰えたのか貰えなかったか忘れたけど
サンタの赤い長靴に入ったお菓子の詰め合わせは憧れだった
大人になってバブルな時代
高級ホテルとフランス料理、プレゼントはティファニーのオープンハート
僕には何の話か分からなかった