夜間のほねほね学校が始まり昼間の病院勤務も始まった
病院は虎の門にあって1000人程の職員がいた僕の仕事は病棟の雑用係だ
渋谷駅から虎の門の駅まで地下鉄銀座線を使う、銀座線は日本最古の地下鉄で
地下鉄と言っても渋谷のビル3階に銀座線の駅があった
それこそ渋谷という土地は谷の底で渋谷を離れるにはどの方向にも上り道になる
ブログのタイトルに渋谷物語と銘打ってるんだけど実は渋谷を知らない
渋谷の駅徒歩7分のアパートに住んで渋谷の学校に通っていても渋谷を知らない
パチンコ屋ぐらいしか行かなかった
銀座線の赤坂はけっこう詳しい
渋谷・・そうそう東急ハンズは入ったな、それと食べ物屋
リンガーハットが出来たばかりで美味かった
今はリンガーの店はあちこちいっぱい出来たんだけど行かない
20歳の時だ一つ上の高校の先輩が原宿にオリジナルデザインの服飾店を出した
あんな、くそ田舎出身で普段着も学校のジャージしか着なかったような生活から
東京に出て3年でおしゃれな自分の店を持った事に驚いた
僕も20代で店?を持ったけど・・
学校の同級生で大学の講師が
「知り合いが表参道に店を出したから連れて行ってあげる」
と言うので行ったら
表参道に面したおしゃれな店の外にテーブルと椅子があって
運ばれて来た料理がパスタだった
同潤会のアパートの向かいか並びだったけど
おしゃれさに驚いたね
夕暮れの表参道、着飾った若者たち、流行の先端行っとるやん
街の臭いと言うか全然違うんだ
かぐや姫の世界だ
お店のショウウィンドーは皆明るくて
道路を走る車は外車が多くて稀にスーパーカーも走っていて
ダイコンを積んだ軽トラなんぞ走って無いぞ
おそらく貧乏人には似合わない街だね
前の年にしょんべん臭い釜ヶ崎で
作業着、着てうろうろしてた事をすっかり忘れてしもうた
朝は4時に家を出てウォーキングする
段々と日の出が遅くなって来て家に帰り着く5時半頃にようやく視界が薄明るくなる
今朝、歩いていると微かに金木犀の匂いが流れて来た
もうそんな季節なんだ
今年は夏という季節になんとなく忘れ物をしたそんな年だった
僕の出た小学校は外便所の道路際に金木犀が植わっていて
便所のきつい臭いを和らげようとしたんだろうけど
それにも増して外便所は臭かった立小便の便器なんかほぼ赤茶けていて
一度教師が硫酸をかけて溶かそうとしていたけどそんな事をしても無駄だった
昔の小学校の便器なんて何所でもそんなもんだっただろう
4年生の時は2階の教室で席が窓際だった
窓の外を見ると隣の畑に肥かつぎのへーたん兄ぃが畑に肥を撒いていた
ほっほほっほ!とリズミカルに肥を担いできては大きな柄杓で肥をすくっては畑に撒く
僕は口をぽかんと開けてずっとへーたん兄ぃの仕事を眺めていた
その時、背後に黒い影が近づいて来て殺気を感じた
「おお!ひろぞう!わりゃわしの授業がちゃんちゃらおかしいて聞けんちゅーのか!おお」
「そんなに肥かつぎが気に入ったんやったら手っとうて来たらどうや!おお!」
上から目線で担任のKが難癖をつけて来た
「何とか言うたらどうや!おお!」
僕はうつむいたまま顔を上げれなかった
その時担任Kの鉄拳が僕の頭に炸裂した
涙がちょちょぎれた
担任Kが追い打ちをかけた
「わりゃ!立ち上がらんかい!立ち上がってくるりと2回ほど回ってそのツラ皆に見せんかい!」
僕は立ち上がって2回ほどくるりと回った顔は床に落としたままだ
同級生達がにやにやとその光景を眺めていた
「ええか!お前は他の子よりだらしが無いんじゃ勉強も出来ん、運動も出来ん、ボケッ!」
きょうびの反社会勢力より汚い言葉で事を締めくくった
僕はことさら担任Kより目の敵にされているわけでは無かった
山本のかーくん?の方が僕より叩かれていた
担任Kが叱り鉄拳を咥えるのはガキ大将格じゃ無いんだ
だらしない子それに弱っちー子
昔の教師が生徒にどんな些細な事で鉄拳を振るまうが生徒から反撃を受ける事はまず無い
それでもガキ大将には鉄拳をひかえる
きょうびのパワハラも皆そんなもんだろう
桜ケ丘のほねほね学校が終わるのが夜の9時過ぎで
鉢山のアパートまではだいたい5分ぐらいで坂を下りてからまた坂を上る
代官山と一括りで呼ばれるこの地域に安い定食屋は全然無かった
唯一天ぷら屋とそば屋があったんだがこれがけっこう高いんだ
後に知ったんだがそば屋は渥美清さんの行きつけだったそうだ
(一度も見た事が無かった)
いまでこそこの界隈は高級フレンチなんかがその手の雑誌を賑わせていて
今日雑誌片手の大勢のおのぼりさん?を呼んでいる
夕食は5時に仕事先の病院で出た
それこそ食堂は夜間の医療系学校の授業に向かう学生たちばかりだった
それでもお腹が減ったのでいつも三浦さんのフルハムロード向かいのコンビニで買い出しした
だいたい一回2千円くらいかかったから月にしたら結構痛い出費だ
風呂屋にも寄った
恵比寿寄りの風呂屋、名前もずばりえびす湯だ
えびす湯でいつも煩い連中と一緒になった
いつも仲間同士で騒いでいた
その頃の人気バンド銀ばえの子分の子分連中だ?
わしは覚えとるその中の一人が役者Sだ
土地勘が出て来ると
中目黒の駅が近い事に気が付いた
アパートから歩いて10分ぐらい
一杯飲みたくなったら中目黒のガード下まで旧山の手通りの坂を下った
今でもあるけど大樽と言う名の大衆酒場
ツマミが皆、僕好みだと思っていたら創業者が高知出身だと後に分かった
昔は汚いお店(失礼)だったけど今では立派な建物になった
ガード下に大阪名物の串カツ屋が出来た事があった
それこそ串カツを目の前で揚げてキャベツ食べ放題二度漬け禁止の大阪スタイルだ
二千円程の出費で十分満足できた
熱燗の味を覚えたのがこの店だ
ご夫婦でやられていて愛想も良かったけれど
いつ行ってもお客が増えなかった
串カツは関西では受けても東京では請け入られなかったみたい
大阪でもそんなにファンが多くも無いもんな・・・
ある日、ひっそりとお店が無くなっていた
現在では中目黒のガード下はおしゃれな店ばかりだ
西武百貨店のウェイターを二時間で辞めてアパートに帰ろうとしたら
ロス疑惑の三浦さんの店フルハムロードの並びの弁当屋・・と言っても
宮内庁御用達の立派な仕出し屋がバイト募集と表に出ていた
賄い付きとあったので
「これや!」と飛びついた
弁当屋の仕事は洗い場だった
下げて来た仕出し弁当の器をひたすら洗う
たまに配達を手伝う
その年・・確か1982年
今でも覚えているけど浅草辺りに配達の途中か隅田川の吾妻橋にかかった時
吾妻橋の上と言わず現在の隅田川テラスの上といい
大勢の人が隅田川に竿を出してサンマを釣っていた
その時から後、何十年も隅田川にサンマが昇って来たなんて聞かないから
たぶんあの時だけなんだろう
あの頃に比べると隅田川は随分と綺麗になった
それでも今でも雨後の隅田川にはネズミの死骸が良く浮いている
弁当屋の洗い場は僕ともう一人同じ年ぐらいのO君と二人で働いていた
O君は少し知的障害があって仕事は雑なんだけど一心不乱にと言うぐらいに
マジメに取り組んでいた
僕はそれを良い事にしょっちゅう手を止めてうんこ座りして煙草を吹かしながら
「せいが出るのぅ~~」と横目でO君を見あげた
O君はそんな僕に興味が無いかのようだった
そんな僕の仕事ぶりを板場の向こうから眺めているおっさんがいた
賄いはさすがに仕出し屋と言うだけあって素晴らしく美味かった
初めて食べるような洋食が多かったな
僕は仕事はしないんだけど賄いだけはいつも大盛りだ
大盛り飯を食べてる最中に先ほどの板場のおっさんが近づいて来て
「僕はここの社長なんだけど君はいつ頃、辞めてくれるの?」
と聞かれた
(社長が現場で働いているなんて知らなかった)
(これはもう辞めろ)と言っているんだ
と思って
「今から辞めます」
とその時を限りに弁当屋を辞めた
僕の人生で病院以外にバイトをしたのはこの弁当屋が最後だ
その後のバイト先は皆病院の下働きだった
雨・・降るし暇やな・・
20歳で大阪から上京したんだけど学校が始まるまで大阪にいてもしょうがないんで
その年の2月にもう大阪のアパートを引き払って東京に出て来た
そうしたところ案の定と言うかやっぱりと言うか入学より2か月も前に
渋谷センター街のパチンコ屋に嵌って持ち金が付きかけた
しょうがないので入学より前にバイトを始めた
西武百貨店の社員喫茶室のウェイターを募集してたから
(社員喫茶室なんて絶対に暇だろう)と思って働き始めたけど
案に反してめっちゃ忙しい
それに少ない休憩時間にお茶しようとしている売り子さん?達の目つきが怖い
少しでもお茶出しが遅いと罵声がとんでくる
「やめさして下さい」とたった2時間で辞めた
同じ日にバイトで入った他の二人も2時間で辞めた
それ程に過酷な職場だった
(同じ時給ならラクな方がいい)
同じ日に辞めた二人のバイトと外に出て話をした
聞いてみたら二人とも同い年の20歳で無職だ
一人は沖縄から出て来たばかりで沖縄ではクラブのボーイをしていたそうだ
(クラブと聞いてそう言う世界もあるのかと感じ入った記憶がある)
もう一人は東京者で日曜日には竹下通りでタケノコをしていると言った
(20歳にもなってタケノコなんてアホちゃうかと正直思った)
東京者が
「2時間働いたんだから2時間分の給料を貰いに行こう」と言うので
僕は
「俺、そんな恥ずかしい事ようせんわ」と言うた
3人で喫茶店で話をして僕が上京したばかりでどうのこうのと言ったら東京者が
僕がまとまった金を持っているんじゃないかと僕の懐を狙った
うまい事言って何とか僕から金をせしめようとしているのがみえみえだった
「僕、今教習所に行ってるんだけど少しばかり貸してくれないかな」
・・とか言いよる
初めて会った奴に金を貸してくれと平気で頼む東京者に驚いた
ほねほね学校にはいろんな学生がいて
博多出身のKと知り合った
親もほねほねマンで2代目なんだけど
見た目に剃りこみに近いものがあって一見反社会勢力の若衆だった
趣味がボートレースでセンター街裏の風俗店にも出入りしていた
ある日そのKが
「ボッタクリにあったっちゃ!とりかえしに行くばい」
「ひろぞうさんも加勢してくれんな」
(それってひょっとして殴り込み)
ほねほね学校の同級生数人に加勢を頼んだ
九州出身の数人がそれに応じた
(わし・・四国やし・・気が小さいし)
「俺ぇ~最近腹の具合がなんとかかんとか」とかごまかして断った
その頃のほねほね学校は特に夜間なんだけど柔道の猛者?が何人もいて
一目見る限りどこぞの〇事務所?より迫力があったから
血の気が多い所もあった
空手道場に通い出した小学生が空手着を着た途端少し強くなったと勘違いするのと同じか
実際僕も柔道の時間?猛者に乱取りをつけて貰ったけどとても相手にならなかった
ボッタクリを取り返しに行った連中は話し合いだけで何とか解決したみたいだけど
Kが僕に対しての軽蔑感だけは拭えなかった
NHK近くの青山通りだったか男前のハナダと歩いていたら
怪しげな男が近づいて来てハナダに名刺を差し出しながら
「君、モデルにならない?」 と声をかけてきた
ハナダは胡散臭そうにしていたけど 僕が
「ええ話やないか、わしも一緒に付いていったるわ」と
二人して宮益坂にあったモデルクラブの事務所に行って見た
なかなか人の出入りのあった事務所だったけどスカウトマン曰く
レッスン料が30万円ほどかかると言う ハナダが
「ふざけんな!帰ろう」と言うので
「そやな」と僕も帰りかけたら スカウトマンが
「じゃレッスン料はいらないからモデルクラブの写真登録料2万5千円をはらってくれたら
仕事を回すよ」と言った
登録だけなら僕もどうだとスカウトマンが言ったけどハナダが
「帰ろう帰ろう」と言うので帰った
ハナダは芸能界に何の興味も無いみたいだったけど
僕はちょっとだけあった
えへへ!
ハナダとは帰って来たけど
その後、一人でハナダに内緒でモデルクラブに引き返し
「僕ぅ~2万5千円払ってモデルやりますわあ」とモデルクラブに所属した
3回ほど映画のエキストラの仕事に出たけんだけど
よく考えると月曜から土曜日の夜まで仕事と学校があって
モデル?の仕事が出来るのが日曜日だけと言う現実を考えたら
とても続かないので現実問題としてモデル?は辞めた
だけど俳優志望のエキストラ達と知り合って下北沢に飲みに出かけたり
有名なTと言う俳優さんが出番待ちの時に声をかけてくれたり
なかなか有意義な体験をする事が出来た
僕が上京して渋谷に住んだのはもう40年も昔
まだ竹下通りでタケノコ族が踊っていてセンター街の入り口にB&Bのお好み焼き屋があった
センター街の裏道の風俗店は軒並みなんとかキャンパスとか〇〇カレッジとか
女子大生を売りにしたお店が多かった
あの頃は女子大学生流行だったな
夜間の青山学院に通っていた高校の同級生が川〇なお美とクラスが一緒だから見に来いと言うので
一度大学まで行った事があった
センター街で初めてケンタッキーのフライドチキンを食べたんだけど
(世の中にこんなに旨いもんがあるんか)と驚いた
初めてカラオケを歌った
大きなスナックであの頃は舞台に上がって司会まで付いていた
確か一曲200円だったけど現在と違って皆マジに聞いているんだよ
物珍しかったんだろう
けっこう友達同士で品評しあったりしてたな
「お前の歌には愛情が感じられないよ」とか
ディスコも最盛期だったな
僕は渋谷のディスコじゃ無くて新宿のコマ劇場前のビルによく行った
やっぱ田舎もんは新宿だよ
渋谷の駅から徒歩7分に僕のアパートがあったから
高校の同級生が僕のアパートを拠点によく集まった
僕以外は皆大学生でまじめで結構優秀な連中だった
安い飲み屋によく繰り出した
コンパと言ってサークル型のカウンターの中にバーテンがいて飲み物を出すんだけど
ボトル一本サントリーレッドが1000幾らかでホワイトが2000円くらい
レッドは不味いしオールドは高い必然いつもホワイトだった
20歳の夏の夕暮れはよく旧山の手通りに面した西郷山公園 まで散歩した。
鉢山町のアパートから旧山の手通りを渡るとすぐのヒルサイドテラス でコーヒーを飲む
大使館通りと呼ばれたこの通りもその頃は現在程メジャーじゃ無くて散歩をしていると
いつも見知った人間とすれ違う
ヒルサイドテラスの向かい側はその頃パンナムの宿舎があって木立の庭を覗くと
ビキニスタイルのCAが日光浴をしていた。
エジプト大使館の隣にシマダジュンコ?のショーウィンドウがあって
山の手通りを挟んだ向かいに同じほねほね学校で同じクラスのノジさんとハナダの住むボロアパートがあった
アパートはボロだったけど敷地は広くて一度アパートに遊びにいった時に山の手通りに面したアパートの庭で
大家のおばあさんが九州のハナダの実家から送って貰った明太子を七輪に乗せうちわで扇ぎながら焼いていた
あのおしゃれな大使館通りに明太子の臭いが漂っていて道行く外人はどう思っただろう
日本人離れな顔立ちで草刈似?のハナダは大使館通りを歩くと際立った
通りを歩く女の子が皆振り返った
まぬけ面の僕は大使館通りより山谷のいろは通りの方がお似合いだ
僕の知る限りあの頃、代官山界隈にボロなアパートが3つ程あって
どこも僕と同じほねほね学校の生徒が住んでいて
僕と同じアパートの女の子は大家のおばあさんに家賃の代わりに鍼!を打っていた
僕のアパートの向かいに新築の分譲マンションが建って確か昭和57年で1Kで5000万円
それが売れずに2年後1億5000万円になった、その近所にアイドル歌手のMが住んでいた
ちなみに僕の西郷山公園までの散歩コースに細川さんと三木さん二人の総理のお宅があった
三木さんはよく西郷山公園で奥様と二人で散歩されているのを見かけた
別にSPなぞいなかった(引退された後だったからか)
毎日、テレビで見かける誰かに出会った
歩道を自転車で走っていてフランソワーズさんにぶつかりかけて驚かれた
コンビニの前でその頃ウエディングベル~♪とか歌ってテレビに出ていた3人組に出会った
(テレビ以外でも一緒におるんか!)
と驚いた
西郷山公園は僕が上京して渋谷に住んだ前年に開園して目黒区になるのか
目黒の街を見下ろす高台にあって夕日に染まった街の向こうに富士山がくっきり見えた
崖の下側、青葉台に美空ひばりさんのお宅があってテレビドラマの撮影もしょっちゅう行われていた
僕は公園のベンチに座って覚えたてのキイボードをいつも弾いていた
庭で明太子を焼いていたおばあさんのアパートは今ものすごくおしゃれなショップになっていて
通りには結婚式の行われるチャペルもできた
毎日のように猟奇的な事件が続いている
あおり運転にご近所トラブル
誰もが些細な事でキレやすくなって来ている
一概にコロナ禍と言うだけで無いだろう
テレビなんぞ見ていると
他人を恨め、ばかにしろ、貶めろと煽っているみたい
テレビのコメンテイターたらと言う人らの顔を見てみい
とって繕ったみたいな顔つきの人ばっかりやん
ああ言わないと使って貰えないのは分かるんだけど
それにしても一方通行なんだからああまでまくし立てると見ていて不愉快になる
寄って集って悪口を言いまくる方は夜はぐっすりと寝られるかも知れんけど
言われる方は反論も言えずに寝られんほど憔悴しとる
総理大臣も同じ人間なんだから
僕に言わせると
菅さんなんぞ散々いじめにあって転校を余儀なくされたいじめられっ子みたい