鷲宮神社の創建は往古、天穂日命とその御子武夷鳥命が二十七の部族を率いて当地に入植し、国土経営の神大己貴命を祀る神崎神社を立て(拝殿から見て左)、次に天穂日命と武夷鳥命を祀る本殿が奉祀されたという。天穂日命は天照大御神の御子で天孫降臨の前、大国主神の説得にあたった神にあたる。
ゆえに神崎神社は本殿脇の摂社にあたる。社名については「鷲」が土師器を生産する土師部に音が通ずることから土師氏の奉仕する土師宮から転じたとする説がある。平安末期から鎌倉期にかけ太田氏による社領の寄進管理が見られる。太田氏は平将門の乱で功を挙げた藤原秀郷の末裔にあたり、この地において土地を開発し太田荘として勢力を伸ばしていた。
鎌倉期になると建久四年(1193)に神前にて事件が起こり、占いの結果兵革の兆しとのことが幕府に進言され、幕府は鹿毛の馬を奉納し社殿の荘厳を命じたと「吾妻鏡」に記されている。鎌倉幕府は東国の支配強化を図るうえで、鶴岡八幡、伊豆三嶋大社、箱根権現、伊豆山権現と共に鷲宮神社を重んじたとされている。社務所の脇には源頼朝の手植えとされるもっこくが残っている。
南北朝期には下野国の小山氏の崇敬庇護を受け、享徳三年(1454)鎌倉幕府内紛から鎌倉公方足利成氏は上杉憲忠を殺害する享徳の乱がおこった。足利成氏は鎌倉を追われ下総国古河に入り、古河公方となると鷲宮神社は古河公方の支配下にはいり、祈祷所とされた。戦国期に入り、権勢を誇った古河公方も小田原の北条氏に滅ぼされ、その後は北条氏の祈願所として位置づけられるようになった。
この時期鷲宮神社神主大内氏は北条旗下の鷲宮社領を支配する鷲宮城主として、北条氏に与力したという。大内氏の所領は埼玉郡下に広くまたがり石高七百石を超えたという。天正十八年北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされ、徳川家康が関東に転封となると、鷲宮の地は徳川家の支配下に組み込まれ四百石の社領が安堵された。しかしこれはかなり減石されたもので、かつての社領であった村々や古河公方ゆかりの久喜の寺院からは支配が変わったことにより、社殿造営等の協力を得られなかったという・。
社家としての大内氏はその後は鷲宮城城主としての立場を放棄し、祭祀に専念するようになったが、宝暦九年(1759)に出された「鷲宮大明神由緒並私家由緒書」によれば代々武士を兼ねた神主であったことから槍を所持して社人の争いを裁いたことなどを伝えている。
明治期に入り由緒ある大社であることが認められ準勅祭社となっている。
祭祀としては酉の市が有名で、きっかけは安政六年(1859)神主大内国泰が氏子の鶯谷音二郎に熊手を商わせたことによるという。当社を拝めば一度に多くの幸福を得ることができると説き、「濡れ手に粟の鷲掴み」と伝えられ、関東随一の酉の市となったという。
氏子区域は旧鷲宮町となるが信仰は広く久喜、加須、幸手栗橋、宮代、菖蒲などにも及び、中世の社領区域と一致する。氏子が伝承する神事芸能として「土師一流催馬楽神楽」があり国の重要無形文化財に指定されている。