皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

深谷 楡山神社

2018-06-21 22:41:14 | 神社と歴史

以前深谷市内を営業車に乗って廻っていたころ、帰り道は深谷商業前を通って、明戸からバイバスに抜けて熊谷の営業所まで帰っていた。途中原郷という田舎道の信号に「楡山神社前」と表記があったが、ここが延喜式式内社ということを知らなかった。

原郷といふ地名は「幡羅」から転じたとされるが、鎮座地の八日市は昔郡の中心であったことを示している。『風土記稿』によれば当社は熊野神社であり、郡の総鎮守として土地の人が楡山神社と呼んだとしている。社伝によれば社名の楡山は神域内に多くの楡の木が茂っていたことによる。かつて樹齢千年を超える大楡木が鳥居の前にあったようだが(県指定天然記念物)現在倒れた後に新芽が伸びている様子だ。創建は五代孝昭天皇の頃という言い伝えがあったようだが、古くから開けた武蔵国幡羅郡四座の内の一社として延喜式式内社であることは確かだ。幡羅郡は平安中期、幡羅太郎道宗再興の地とされ、神社の南西に「幡羅太郎館跡」がある。康平年間(1058-1065)八幡太郎義家奥州征伐の際、道宗の長男成田助高はこの社に戦勝祈願したと伝えられる。成田と名乗ったのはこの五代助高からとされ、従五位下を賜り現在の上之村に居を構えている。その子六代助広は成田太郎を名乗り、四兄弟としてそれぞれ別府、奈良、玉井と勢力を広げた。助広の三男助忠は成田五郎を名乗り一の谷合戦に参じている。この助忠が成田五郎長景で、皿尾の久伊豆神社を勧請した可能性があると思っている。

ご祭神は古くは猿田彦命であったが現在は伊邪那美命。節分祭が有名で「権現様の豆まき」と称して江戸期には盛隆を極めている。三月三日の鎮火際には伊邪那美命が火結神の荒れるのを防ぐため水神を呼んだ故事に習う祭りとされている。
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