本年のNHK大河ドラマは「鎌倉殿の13人」主人公北条義時始め、多くの坂東武者が登場し、新たな時代を切り開く様子が描かれている。その中心となるのが源氏の棟梁たる源頼朝。
頼朝の敬神並びに幕府の崇敬政策は、中世において各々の武士の敬神思想を啓発したと考えられている。権力を有する者が自らその地に信仰する神々を、勧請するか或いはすでに鎮座する産土神を崇敬し続けるといういづれかの形をとる。武蔵の坂東武者がこのころ勧請した神社は主に、八幡、香取、鹿島、諏訪等武神として祀られる神が多い。
忍領における武士勧請の神社として、北埼玉郡星宮村皿尾、久伊豆神社大雷神社合殿を見ることができる。延宝元年(1673)の縁起
によれば
文治四年(1188)成田五郎長景が平家追討の折伊豆三島大社にて武運長久を祈願し、功名を挙げたとして帰郷後この地に伊豆三島明神を勧請したのが始まりと記されいる。
現在もこの縁起は宮司家に残されており、『新編武蔵風土記稿』の記述の元となったと考えられている。
成田の祖先たる成田長景の詳細については不明であるが、承久の乱に出陣との記述が『吾妻鏡』に見られる。また成田家六代当主成田助広(太郎)の三男、成田助忠は五郎を名乗り永寿二年(1184)源平合戦にて戦功をあげたと伝わる。
忍の成田家と皿尾村の縁の一つに、12代当主家時は菩提寺龍淵寺の開祖として和庵清順和尚を講じている。
清順和尚は皿尾村の薬師堂付近の高僧であったと成田記にも記される(現在は泉蔵院)
また時代が下って天正元年(1573)には龍淵寺九世梅岩は皿尾村に高太寺を創建している。
寺社仏閣は地域を映す鏡とも言われるが、皿尾に残るそれぞれの寺社仏閣とも成田家由来のものとして伝わり、忍城戌亥(北西)の要の地としてその歴史を刻んできたことがわかっている。