皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

飴を買う幽霊

2022-03-28 22:46:46 | 昔々の物語
昔はお寺の門前坂には、飴やさんが多くあったそうです。その飴屋に閉店間際ひとり怪しげな女が飴を買いに来たそうです。
一文で飴がひとつの時代。
女は来る日も来る日も飴を求めてやって来ます。しかもその数は一つきりでした。
六日目の夜、その女は「もうこれで銭がありません。今宵が最後でしょう。もう来ることもありません」
と寂しそうに一文銭をおいて店を出ました。
不思議に思った店の主人はこっそりあとをつけました。すると女は寺の境内をすり抜け墓地に入っていくと、埋葬されたばかりの新しい墓の前でふっと消えてなくなりました。
「これは何かあるに違いない」そう思った飴屋の主人は翌朝寺の住職に立ち会ってもらい、その墓を掘り起こしてみたのです。
すると棺のなかで女の亡骸にしっかりと抱かれた赤ん坊が飴をしゃぶっています。亡くなった妊婦が埋葬後に赤ん坊を生んでいたそうです。
棺のなかにいれてあった三途の川の渡し賃とされる六文銭がなくなっているではありませんか。
若い母親が幽霊になってまで我が子を案じ飴を買うという話を書いたのは小泉八雲というギリシャ生まれのアイルランド人作家です。

日本人の持つ深い精神に触れた八雲は日本に帰化し多くの作品を残しています。「耳なし芳一」「ろくろ首」などです。
小泉八雲が明治27年に熊本での講演で述べた大事な一文を記します。
今の日本にとって大事なことだと思います。
日本の貧困はその強みであるという固い信念を敢えて述べたい
裕福は将来弱体化する原因になりうる
日本には危険性があると考える。
古来からの質素で健全な自然で節度ある誠実な生活方式を捨て去る危険がある
日本がその質素さを保ち続ける間は強いが、もし舶来の贅沢志向を取り入れるとすれば衰退していくだろう。

飴を買う幽霊の話は日本人母子を描いた短編です。すでに多くの日本人はその精神を失っているかもしれません。
国としてすでに弱体化しているのでしょう。
ものが貧しいときの方が心は豊かで、人を思う気持ちが強いのかもしれません。
豊かさを求めながら、貧しさを知る。
歴史に学ぶことしかないのかも知れません。

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忍藩主阿部家 老中の家の葛藤

2022-03-28 20:00:12 | 政を為すは人にあり

忍藩主阿部家の当主は初代忠秋から正充(まさちか)まで5代続けて幕府の老中を務めている。これにより当主が幕府の要職に就くことが慣例となり、6代目となる正敏も要職就任を働きかけている。其の甲斐あって天明4年(1784)には大坂城代に就任。その時に幕府内の家老や奥方に渡した就任の礼金や贈答品の記録が残されていて、合わせて1265両となっている。日本銀行研究所の資料ではおおむね江戸期の一両は米換算で現在の四万円とされているのでざっと見積もって 五千万以上の働きかけをしている。(まさしく散財であろう)
阿部家の菩提寺は行田にある大長寺(浄土宗)で阿部家に限らず、諸侯は祖先を崇拝し神格化することでその正当性を堅持してきた。
正敏は初代忠秋の顕彰を行い、忍城二の丸に社をたて御神体として忠秋の武具を祀っている。阿部家にとって譜代大名として揺るぎない地位を築いた忠秋こそが顕彰の対象であったのだろう。

しかし幕府内での出世や大坂城代への赴任に加え天明三年の浅間山噴火や天明の大飢饉(1785)により忍領内も疲弊する。
このような状況下で正敏の藩政に異を唱えたのが世子であった阿部正識(まさつね)。正識は天明六年(1786)に意見書を出して現在の藩政は家臣や領内を顧みず、幕府内の出世と神仏ばかりに関心を向けていると痛烈に批判します。
正敏は大坂城代在任中に亡くなったため、阿部家の老中就任はとぎれてしまう。藩主を継いだ正識は宣言のとおり幕府の要職に就かず、藩政にのみ専念することとなる。
それはまさしく忍の藩政と家臣を思っての行いであったと考えらる。
正識は書道と漢詩に造詣深く、忍東照宮にも名筆が今に残されている。
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花と緑に囲まれて

2022-03-28 14:59:38 | 日記

桜ばかりでなく、木瓜や辛夷といった木々の花も開花を迎えています。













毎年咲く水洗も種類があるようで、色の違いが見てとれます。




桜にばかり目が引かれますが、オオイヌノフグリなど畑の野花も彩りを添えています。弥生も残すところあと三日となりました。




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『新編武蔵風土記稿』に映る忍城後背図はどこから見た景色か②

2022-03-28 10:58:40 | 郷土散策

天保元年(1830年)に完成した『新編武蔵風土記稿』には当時の村々の様子が記述されるだけではなく、多くの挿絵が載っている。現在のSNS社会において、映像や動画が限りなく世の中に受け入れられるように、江戸期においてもより記録を詳細に伝えるために、図柄として残していたことがわかる。それだけ視覚による情報伝達は多くのことを即座に伝える手段として認知されていたのだろう。
皿尾村の項においても、挿絵として永禄二年奉納の『鰐口』が記されている。成田家の名前と銘記年が明確で、中世の工芸品が確かにあることを伝えている。
平成11年に当社の保有するこの『鰐口』が行田市有形文化財に指定されたのも、この武蔵稿の挿絵と一致していたことによるのだろう。歴史の記録は一つ二つと重なることで確かなものとなり、後世になって間違いなく伝わることの所以である。こういことが積み重なって今の日本の歴史が解明されてきたのであり、数年前から指摘されている公文書の改ざんや消失は歴史学的に見て非常に大きな問題であることを示している。要するに都合よく記録を変えたり、無くしたりしてしまえば国という最も大事な大枠がなくなってしまうのだ。

『新編武蔵風土記稿』に掲載された景観図は293点あるそうだ。
行田市を含む埼玉郡においては21点。全体では10村に一つの割合で景観図が載っている。村々の様子を直に伝えるには多くの景観図を集め掲載することで当時の関東の様子を残そうとしたのではないか。
皿尾村の項には大変優雅な『忍城後背図』掲載されている。
元々は文政8年(1825)に描かれた『増補忍名所図会』に書かれたもので当時の様子を今に伝えている。

忍城を戌亥(北西)から見下ろしたような構図で現在の私の自宅から見える景色と重なるようだ。当時すでに皿尾城の名残はなかったはずで、平坦な場所から見下ろすには、久伊豆大雷神社の鎮守の森に登って書いたような構図のように思う。
同じ景色を私は200年後の令和の御代に見ているのだ。
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