皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

「新編武蔵風土記稿」に映る忍城後背図はどこから見た景色か①

2022-03-27 21:12:18 | 郷土散策

『新編武蔵風土記稿』じは江戸時代の武蔵国、すなわち現在の埼玉県全域と東京都の大部分、神奈川県川崎市と横浜市の一部を含む地域の地誌とされます。江戸幕府の直営事業として文化三年(1810)に編纂が始まり、天保元年(1830)に完成します。
全265巻からなる『風土記稿』の大半は武蔵国内にあった約3千の村や町の地理、歴史、民俗産業などに関する記録です。
 編纂にあっては江戸幕府の役人が各地の村を訪れて、直接話を聞き、地元の古文書や遺物を探し当て、現地を歩いて史跡を見て回りそれらを踏まえて執筆されたそうです。
今では伺い知ることのできない200年以上前の郷土の姿をこの記録から読み取ることができます。
私の住む皿尾村についても記述があり、先述の通り久伊豆雷電神社の稿についてはむしろ当社に残る延宝元年縁起をもとにして書かれたと考えられます。
なぜ新編武蔵風土記稿は江戸期後半になって編纂されたのか。
理由の一つには関ケ原以降国内の戦がなくなり、太平の世が継続したことが挙げられます。幕府創設200年はもちろん、幕政の順調な時期が多く、東照大権現の威光をもとに、長きにわたる徳川の世の体制が確立した時期でした。
一方江戸の文化も栄えた元禄以降、宝永4年(1707)の富士山噴火、天明三年(1783)浅間山噴火など天変地異に加え、飢饉や一揆も起こる中、幕府は直轄領の多い関東で地誌を編纂し、領地の再検地を図りながら、石高を増やそうと考えていたようです。
幕府のために編纂された『武蔵稿』は当時それほど多くの人に読まれたものではなかったといいます(公儀の記録であるから)
しかし200年の時を超え、現在に至っては当時の関東の様子を伝える大変貴重な資料となっているのです。
文書や記録は時を経てその重みを増すものです。歴史がまさしくそう教えてくれています。電子社会、インターネット中心の現在において私たちに諭しているように思えて仕方ありません。
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世の中と塩あんびんは甘くない

2022-03-27 19:26:49 | 食べることは生きること

埼玉銘菓といえば十万石饅頭。謂れは版画家棟方志功の食べた感想で「行田銘菓にしておくにはうまい、うますぎる」とのことばから。
一方、埼玉県名発祥の地、さきたま村の銘菓すなわち、「さきたま銘菓」といえば金沢製菓の「塩あんびん」。
なかなか買いに行く機会は少ないが、地元のお付き合いからいただくことが多い。
私たち世代にとってこの塩あんびんとはまさしく世代間ギャップをもっとも感じる銘菓ではないだろうか。
実は金沢製菓さんは、皿尾の久伊豆神社にとっても祭事に奉納する鏡餅や赤飯等神撰を注文する先の老舗店舗。他にも秩父屋さんなどもつくっていらっしゃるが、私にとって塩あんびんといったら金沢製菓。

塩あんびんとは砂糖を使わずに塩で味付けた大福のこと。小さい頃甘いと思って食べた大福がしょっぱかったせいで、幼い頃はみな嫌う。
しかも餅米の大福だから翌日にはかたくなってしまう。砂糖をつけて食べるのが一般的であるが、子供心に、「はじめから甘くすればいいのに」と思ったものだ。
なぜ塩あんびんは甘くないのか
単純に昔は砂糖が貴重で、使える量が少なく砂糖の代わりに塩で味付けたから
塩と比べ砂糖は贅沢品だったのだ。今でも上白、グラ、ザラメ、三温など原料としては高騰している。
しかも昔は砂糖の取引自体が商社中心の専売制で自由な取引ができるようになったのは戦後のことだ。
いまでもその名残で商社と取引する主要問屋は特約店制度で、取引自体購入から支払いまで10日の期限しか猶予がない。売り手の殿様商売が続いているのだ。それだけ砂糖が物不足のもとでは贅沢品として目をつけられていたのだろう。
大人になってようやく塩あんびんを美味しく食べられるようになった。贅沢に砂糖やシロップをつけて。
甘くなくとも大福餅が食べたかった時代。そういうときがあったことを私たちは忘れてはならない。
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老中阿部家寄進 太刀一腰 ~初代忠秋公から幕末明治維新までの歴史~

2022-03-27 09:18:01 |  久伊豆大雷神社

延宝元年(1673)阿部正能により再建された皿尾久伊豆大雷神社は、以降阿部家の崇敬を受けて興隆する。

阿部家は初代豊後守忠秋を祖とし、寛永十六年(1639)より忍城主となる。忠秋は駿府で生まれ幼名のころから家光に近侍している。
当初所領は上州新田であったが、寛永十二年(1635)下野国壬生城を拝領する。壬生は下野都賀郡にあって、関東平野の北辺にある重要地であった。
忠秋が老中として取り立てられるに当たり、家光の侍従としての働きが認められたことは疑いようがないが、そのきっかけは寛永九年(1632)川越鴻巣における猪狩りの逸話がある。家康の鷹狩はよく知られたところであるが、家光猪狩りの折、墨田川洪水に当たり馬に乗って川を渡り名をあげ家紋に旭日章を得ている。
神社を再建した阿部正能は二代目で忠秋の養子である。摂津守となって忠秋の跡を継ぎ延宝元年老中となるが、自己の器に余りあると悟り、五年余りでその職を退いている。一方神を敬う念深く、皿尾の久伊豆大雷神社の再建のほか、熊谷高城神社の本殿も造営している。高城神社は言わずと知れた延喜式式内社で、熊谷総鎮守である。
時代は下って文政六年(1823)三方領地替えによって忍城主となったのは桑名より遷った松平家。
阿部家は当時九代正権の時代であった。白河に移って僅か十八歳で没したと伝わる多くの苦難があったことは推し測って余りある。当時阿部家に付き従い白河へ移ったものも少なくなかった。
阿部家が白河に移ったのちも忍領下の神社への崇敬が絶えることはなかった。
十四代阿部播磨守正嗜は当社に寒中見舞いを送っている
また十五代阿部正外は幕末の混乱期井伊直弼に重用され元治元年(1864)老中となる。文久二年(1862)には生麦事件発生時の外国奉行を務めている。
その阿部正外は皿尾久伊豆大雷神社へ太刀一腰、御馬、縮面を寄進している。
太刀は平成二十九年刀剣所持の登録をし、後世に伝えるよう保存されている。太刀の銘文は「一帯子國安」と刻まれ年号は文化十年八月(1813)とある。
阿部家が三方領地替えで白河に移る以前に打たれていた家宝の太刀を幕末の混乱に当社に寄進した貴重な社宝である。
慶応元年阿部家は兵庫港開港の交渉を英仏蘭とまとめた責を負い、改易を命じられ翌慶応二年正外は蟄居謹慎を命じられる。
翌明治元年には戊辰戦争が始まっている。
正外は明治二十年六十歳でその生涯を閉じることとなるが、阿部家の徳川を支えようとした忠義心は時代を超えて皿尾の地に残っている。

拝殿で叩く神事の太鼓は慶応二年奉納。
令和となってもその音を響かせている。


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