『新編武蔵風土記稿』じは江戸時代の武蔵国、すなわち現在の埼玉県全域と東京都の大部分、神奈川県川崎市と横浜市の一部を含む地域の地誌とされます。江戸幕府の直営事業として文化三年(1810)に編纂が始まり、天保元年(1830)に完成します。
全265巻からなる『風土記稿』の大半は武蔵国内にあった約3千の村や町の地理、歴史、民俗産業などに関する記録です。
編纂にあっては江戸幕府の役人が各地の村を訪れて、直接話を聞き、地元の古文書や遺物を探し当て、現地を歩いて史跡を見て回りそれらを踏まえて執筆されたそうです。
今では伺い知ることのできない200年以上前の郷土の姿をこの記録から読み取ることができます。
私の住む皿尾村についても記述があり、先述の通り久伊豆雷電神社の稿についてはむしろ当社に残る延宝元年縁起をもとにして書かれたと考えられます。
なぜ新編武蔵風土記稿は江戸期後半になって編纂されたのか。
理由の一つには関ケ原以降国内の戦がなくなり、太平の世が継続したことが挙げられます。幕府創設200年はもちろん、幕政の順調な時期が多く、東照大権現の威光をもとに、長きにわたる徳川の世の体制が確立した時期でした。
一方江戸の文化も栄えた元禄以降、宝永4年(1707)の富士山噴火、天明三年(1783)浅間山噴火など天変地異に加え、飢饉や一揆も起こる中、幕府は直轄領の多い関東で地誌を編纂し、領地の再検地を図りながら、石高を増やそうと考えていたようです。
幕府のために編纂された『武蔵稿』は当時それほど多くの人に読まれたものではなかったといいます(公儀の記録であるから)
しかし200年の時を超え、現在に至っては当時の関東の様子を伝える大変貴重な資料となっているのです。
文書や記録は時を経てその重みを増すものです。歴史がまさしくそう教えてくれています。電子社会、インターネット中心の現在において私たちに諭しているように思えて仕方ありません。