皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

皿尾 久伊豆神社大雷神社合殿④~先ず以って神事、受け継がし村の祭り~

2022-03-26 20:44:08 |  久伊豆大雷神社

村の行事は元旦祭、祈年祭(三月二十九日)厄神祭(五月四日)例大祭(夏祭り七月二八日二九日)風神祭(八月二八日)新穀感謝祭(秋祭り十一月二十八日)大祓い(十二月三十一日)である。
春の祈年祭で年番役員が交代し、新年度から新役員となる。当地区においてもその年の祭りに奉仕する役目の人を「年番」と称す。年長の取りまとめ役が「年番長」となり祭りの責任者を兼ねる。祭事においては先述の通り、城の守りとしての久伊豆社、村の守護としての雷電社それぞれに同じ神饌を奉納する。よって御神酒も二本奉納するのが慣例となっている。
新年番の最初の大きな祭事が五月の厄神祭である。苗代が終わる五月の初め、神輿を担いで各農家を廻りお祓いをする。御神体が村中を廻る大きな祭事である。昭和五十年代まではすべての農家を廻り、早朝から深夜まで神輿が出回ったいた。子供も多く神輿の後をついて回り、それぞれの家から菓子や料理が振舞われ大喜びした時代だ。途中村の入り口の三か所の辻にて「厄神除神璽」の札を指した竹に注連縄を張り辻祓いを行う。現在でも家々に樫の枝につけた紙垂を配り、合わせて御神酒もふるまって回る。起源は江戸期の疫病蔓延の際に行った祓いといわれ三百年近く続く村の神事となっている。

(写真は平成三十年の祭りの様子です
現在では各年番の家にて神輿を留め、祓いを行うだけとなっているが、久伊豆社、雷電様二柱の御神体を乗せ神輿を出すこと自体が過疎化の進む地域では貴重な祭事となっている。慣例で神輿渡御の後に行われる直会は大皿の料理を氏子皆で囲む。
残念ながらコロナ禍の影響で直会はもちろん神輿の渡御もここ三年中止となっている。

また厄神祭においては五色御旗(幣束)と毎年新たな下駄が奉納される。下駄については戦後まで氏子も含めて厄神祭には新たな草履で祭事に当たったそうである。現在でも神職が履く下駄は毎年新しいものが市内の履物店で用意されている。それだけ村の厄除けの意味合いを重んじていたのである。
こうした厄神祭神事は戦前まで多くの農村地域で執り行われていたことが「埼玉の神社」等で伺い知ることができる。お隣の熊谷市古宮神社においても現在でも五月の初めに当社よりも大規模な厄神除け神事が行われているそうである。

七月の例大祭は灯篭祭りと称し、前夜のヨミヤには氏子が思い思いの絵を灯篭に描き境内と参道を飾る。境内と鳥居を花で彩り、翌日の祭典ではお供えとお供物を直会にて配る。昭和六十年代まではカラオケなど盛大に行われ、近年まで子供神輿も担がれていた。また夜祭は地元青年部主催の催しが行われ、氏子の年に一度の大きな楽しみとなっている。(ここ三年同じようにコロナ禍のため、祭典を除き自粛しているが非常に残念だ)


八月の風神祭は嵐除けの風祭と呼ばれる農耕祭祀である。立春から数えて二百十日は農家の厄日であり、稲の発芽を迎える大事な時期である。嵐除けの神事が古くから行われ、これが終わると宝登山神社へ講社として代参している(宝登山皿尾講)末社として上座に稲荷神社、下座に風神社が並ぶ。こうした末社の並びも恐らく先人たちが意味を持って並べ祀ったと考えられる。

八月の風神祭と三月祈年祭にのみ黒豆を入れたご飯を炊く。オミゴクと呼んで御神前に奉納し、氏子へ配る。これはまさしく農村部が行ってきた祭祀の一つで、豊作を願う祈年祭と嵐除けを祈る風神祭のみに行われる。おそらく真っ黒になるまでいたつきはたらくという誓約の意味があるのだろう。大祭や新嘗祭にはお供えと赤飯を奉納していることから、非常に貴重な風習だと考えられる。(おせち料理の黒豆と同義であろう)

境内地には多くの南天の木が生える。古くから虫封じの祈願も多く厄除け諸難除けの信仰も厚い。
氏子
氏子はお鎮守様が麻が嫌いなので麻の着物は遠慮したという。また名前にアサとはつけなかったともいう。またお鎮守様はトウモロコシで目を突いてしまったため、畑の作付けにトウモロコシは植えてはならないとも伝わる。こうした作物の禁忌は各地で残り、隣の小敷田春日様でも同じ言い伝えがある(禁忌伝承)これはおそらく維持が難しい田んぼからの転作を戒める意味があるのだと考えられる。これを遡れば斎庭の神勅まで遡ろう。同じ作物でも米だけは豊かな水がなければ続かない。田んぼ自体が維持できないのである。

氏神である大雷神社(雷電様)には風神雷神の彫が施される。
雷に対しても落雷したところはお祓いするまで注連縄を張り、神の神徳を願ったという。明治期までは雷が落ちると「もったいない」と言っていたという。

忍城戌亥の守護神として、また農村部の耕作神として代々受け継がれてきた信仰は、令和の御代を迎えてなおその御神徳を村に授けている。
また近年では花手水を奉納し、近隣からの参拝者も多い。
三嶋大明神が導く神社の起源は八百年の時を超え今なお多くの人々に支えられ、その威光を輝かせているのである。

最後まで久伊豆大雷神社の由緒と歴史、現在の祭りに至るまでの拙文をご覧いただき誠にありがとうございます。
皆様に神の御神徳が授かりますことを皿尾の地から祈っております。お参りの際にはどうぞお声かけくださいませ。
祭事に対するお問い合わせもこちらにいただければ幸いです。
久伊豆大雷神社 第二十三代 宮司 青木 孝茂
               
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

皿尾 久伊豆神社大雷神社合殿③~一軒二社造りの本殿とお嫁に来た御神木~

2022-03-26 17:07:48 |  久伊豆大雷神社

当社の正式社名は登記上「久伊豆神社大雷神社合殿」。これはおそらく戦後神社本庁設立後、宗教法人として登記した際に用いた名称だろう。江戸期の縁起(延宝・享保)に記される表記は「武蔵国埼玉郡皿尾村久伊豆雷電両神之縁起」とあることから、少なくとも延宝元年社殿が建立されたのちは「久伊豆雷電神社」と称していたのではないかと比定される。但し久伊豆社は忍城の守護神として、雷電様は村の鎮守としての祀られていたと考えられる。

久伊豆社は忍城乾(戌亥=北西)の方角に当たり城の守護神として忍城主から厚い信仰を受けた。忍城から北西の先にはさらに成田家出生の地である上之村があり、現在の上之神社はまさしく兄弟社であり勧請時期も同じ久伊豆神社である。忍城の鬼門神(丑寅)が長野の久伊豆神社であり裏鬼門に当たる大宮神社も同じく久伊豆神社である。今でも大宮口と呼び、石田軍との激戦の地であったことが知られている。但し長野と大宮口は12代家時以降の勧請であるから、やや時代としては戌亥の守りより時代が下ったものである。また上之と皿尾はご祭神が事代主神(大山祇神)であり、大宮と長野は大国主である。成田家がいかに忍城の守りを神に祈ったかが伺える。武家勧請の神として三島明神を祀ったことを始めとしつつ、武蔵七党の有力集団であった私市党の守護神である久伊豆社を氏神として祀ったのであろう。
一方大雷神社は江戸期までは雷電神社と記し、村の社としてはこちらが信仰を集めた。雷除け、百日咳の神として尊ばれ、子供が百日咳になると神社裏の淀の水を飲んで治し、また神社から人形やでんでん太鼓などを借り、治ると倍にして返したという。
昭和50年代前半まではこうしたでんでん太鼓や人形が本殿に残っていた(私が子供のころの記憶で確かに残っている)高度成長期以降、農村部の治水区画整備が進み、井戸や淀の水が姿を消したが、確かに水に対する信仰は戦後も長く残っていたのである。
干ばつの折には社殿正面にあるオミタラセの池を掃除すると必ず三日のうちに雨が降るとされ、雨乞いの習わしとして
泥上げをして水を替えた。境内には春日杉と呼ばれる御神木がありこのあたりの目印になるものであったが、平成三年頃倒木の恐れから伐採している。
現在は伐採の翌年に植樹した榧の木が御神木として伸びている。植樹30年となる榧の木は当時神社総代を務めていた駒形の水村家から送られたもので、生駒様からの嫁入り木である。容姿は竜が飛ぶの如く伸びることから、「飛竜の榧」とも呼ばれている。こうして境内の御神木は時代と共に受け継がれてきたのである。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

皿尾 久伊豆神社大雷神社合殿②~三嶋大明神が導く神社の起源と現在に至るまで~

2022-03-26 14:44:06 |  久伊豆大雷神社
当地は永正年間成田氏が忍城を築くまで居住し、太平洋戦争後、生活改善や酪農の実験村として関東一円に知られたところである。昭和40年建設の皿尾農民センターは当時の斬新な建築モデルを採用し、平成27年に改築されるまで地域のシンボルとしてその姿をとどめていた。

当社の縁起によれば成田長景が源頼朝に付き従い平家追討の折、伊豆三島大社に武運長久を祈願し、功名を挙げたのは神徳の致すところとし、この地に三島明神と雷電神を勧請し、祭祀をはじめたと伝えている。
『新編武蔵風土記稿』では「久伊豆は郡中騎西町場に大社ありて、近郷是を勧請するも多し、当社も恐らくは其類ならん」と記す。

「埼玉の神社」によればご祭神は久伊豆社が事代主神、大雷神社が別雷命と記しているが、久伊豆社の祭神は大山祇命。(縁起より)但し三島大明神とは古来より事代主神、大山祇神の二柱の神を合わせて称したものと伝わっており、忍領下の多くの久伊豆神社が大国主を祀っているのと異なる点である。
忍城落城の後、寛永十九年(1642)忍領主阿部豊後守忠秋が崇敬するところとなり、領主が武運長久を神主青木家に命じ、阿部播磨守正能は延宝元年(1673)社殿を再建している。
尚明治二十四年奉納の絵馬に当時の祭祀の様子が描かれており、社殿も当時のものと考えられる。また延宝元年再建の棟札は現在でも当時記されたままの形で現存していて、江戸初期の神社建築の様子を伝える貴重な文化財となっている。

明治六年(1873)に村社となり同四十一年(1908)駒形の生駒神社、字仲之在家の神明社、同地区の天神社と三社境内に合祀している。これ以前より末社として稲荷社と風神社を祀る。明治の合祀政策は維新政府の重要政策であったが、各地で合祀に対する反発は激しく、生駒社においては明治末期には駒形地区に戻されている。生駒神社の歴史は古く、郷土史家清水雪翁氏の「北武八誌」にはこの地で鎌倉幕府御家人梶原景時は検地の折、馬を留めて休んだと伝えている。
現在の社殿は昭和六年(1931)建立の神社建築で九十年の時を過ぎ当時の様子を現在に伝える。棟上げの時の写真も現存し、忍の献上米を作るにふさわしい土地柄で、米俵三俵が奉納された様子が映っている。現在でも当時を模した米俵が供えられており、また一軒二社造りの本殿は祭祀の度、同じ神饌を二組奉納する習いである。

社家である青木家は天正十八年の青木甲斐正澄から現在の青木孝茂に至るまで二十三代を数え、江戸期は入間郡塚越村住吉神社勝呂家の配下となっていた。
当社には天正期以降の多くの社宝があったとされるが、忍城水攻めに当たり、石田三成の軍勢によりその大多数が散失している。
しかしながら元禄七年卜部兼連の神道裁許状が残る。これは巫女に対する神楽舞衣の使用を認めたもので、裁許状の種類としては稀である。

また平成十一年には所有する工芸品「鰐口」が行田市有形文化財に指定されている。
鰐口とは寺院や神社の拝殿に吊るされた、参拝者が綱を振って鳴らす鈴のことで、扁平の円形をしている工芸品。
「永禄二年十一月三日願主右衛門三郎」の銘文が刻まれていて、同じく「鋳物師田井」と名が記されている。
この鰐口は「新編武蔵風土記稿」にも記されていて、戦国期(1559年頃)の様子を今に伝える貴重な資料とされている。また風土記稿においては天正五年銘の成田家家臣中村丹波守守吉が奉納した鰐口もあったと記されているがいつのころか失われたという。

境内地には日露戦争従軍碑が、また拝殿には大東亜戦争出征名簿が残されている。
多くの人々の苦難とそれを乗り越えてきた村の氏子の足跡が今に伝えられている。共に私の叔父や祖父、曾祖父の名も刻まれている。
私がここで生きる意味がそこにはある。それは皿尾村の歴史を後世に伝えていくことに他ならない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする