「鎮守の杜」というと一般的には神聖なイメージを抱き、一方で近隣住民や神社役員、神職にとっては掃き掃除が大変だったり、台風の倒木を心配したりと、かえって「厄介」な一面を感じることもある。
神社には御神木という神聖な木が残るところも多いが、近年の都市や気候変動による台風被害など、木や森を守ってゆくことは、神社関係者にとっておおきな課題となっている。
「鎮守の杜」と書くことが多いが、「杜」と「森」との違いはなにか。諸説あるなかで、主には「神域」にちかいかどううかで区別するようである。「杜」とは日本独自の読みをする漢字のため中国においては「塞ぐ」という意味を有する。鳥居によって仕切られた特別な空間を神域ととらえ、周囲から杜絶(とぜつ)された場所とすれば、神社の立木を「杜」と記し「守り」の意味と繋げる説もあるそうだ。
日本の森林の概要につて林学博士西野文貴先生は神社通信において次のようにまとめている。
日本における森林率は約七割(2500万㌶)と世界第二位を誇る。(先進国中の率)その中身は人工林6割、天然林四割だとされる。南北に長い国土を有するの日本においては東北地方では落葉樹林、関東以西では常緑樹林が主体となる。しかし自然の状態の原生林で良質な森というのはほとんどないそうだ。そのわずか残っている場所こそが古来からの鎮守の杜と考えられている。
飛鳥時代から森を守る制度はあったようで、平安時代には香久山畝傍山などの伐採が禁じられ、江戸時代になると、幕府有林、大名有林、寺社有林などの区分が生まれている。寛文六年(1663)には「諸国山川掟」が発せられ、河川流域などの造林が推奨されてきた。江戸時代においては、大量の木を伐採し、災害が起きるなどしていたのである。産業として木材が流通し、人々の暮らしが豊かになった時代のことだろう。
一方で平安時代から禁伐とされた地域が「神域」ととらえられ、各地の有力社寺もこれに習って寺社林が守られてきたことは、全国的な杜の歴史だろう。自然崇拝依り代として考えれば当然の流れであるが、すべての寺社林が原生林のような森であったとは限らないという。
それぞれの神社仏閣が長い歴史のなかで築いてきた「杜」にはそれぞれの歴史があって、ひとくくりにまとめるのは神社本来の姿を考えるとそぐわない考え方になる。自然林としてあったところもあれば、外来種や園芸種が育成しても一般的には鎮守の杜として認識されてきたことだろう。
大事なことはその地域の人々が神域の木々を神聖なものとしてとらえ、次世代以降にも受け継がれるように持続可能な森として、守って来たかどうかである。自然の木々を自分達と共生する対象として手を掛け(少なくとも気に掛け)ているかによるものだ。
近年大きな問題としてスギ・ヒノキの花粉問題がある。日露戦争に始まる近代の戦禍の影響で 昭和二十五年(1950)には「造林桃林寺措置法」が制定され有林所有者が植樹しない場合、第三者が造林することができるようになり、植樹後数年で高い収益が得られるスギ、ヒノキが経済林として広まってしまったのである。半世紀が過ぎ、その経済林が引き起こした問題は花粉症となって現在に至っている。
また一方で日本の常緑樹林域において天然更新(人が手をかけない自然育成)を妨げている問題があるという。鹿の増加である。
関東の平野部において鹿の被害はあまり知られていないが、昭和後期(高度成長期)に25万頭だった鹿が現在その数を4倍に増やしているという。鹿により木々の実が餌さとなり世代交代ができないのだ。鹿が増えた原因として繁殖力が高いことに加え、天敵であるニホンオオカミが絶滅したことがあげられている。」
桜の季節を迎え、都心部の名所に多くの人々が集う。
そうした景色も次世代に引き継ぎたいの日本の光景であるが、その土地その土地で持続可能な森や花を受け継いで行くために、「鎮守の杜」を外来種や園芸種、本来の天然種といった選別をするのではなく、共生の対象として持続させる取り組みが必要とされているのだという。
「雑草という草はない」
昭和天皇が侍従に示したお言葉が今に伝わるよう、いかなる困難や自然の猛威を越えて命というもっとも大切なものを次世代に引き継いでいくことが私たちの指名であろう。