皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

皆野町 善女竜王社

2018-11-19 20:35:24 | 神社と歴史

 長瀞方面から美の山公園を目指し、蓑山を登る山中に小さな神社が鎮座している。善女竜王社と記されていた。

秩父郡の延喜式内社は二社で一社が皆野町の椋(むく)神社とされている。同名社が郡内五社あり、いづれも自社がその椋神社であるとの主張しているという。社記によれば十二代景行天皇の御代、日本武尊が東国平定に際し、知知夫国を巡った時にこの地に至り御矛をたてて猿田彦命、大己貴命、八意思兼命(やごごろおもいかねのみこと)の三柱の神を祀り、椋宮(くらのみや)=倉宮明神と称したと伝えられている。後に畠山重忠や阿部豊後守、松平下総守らの崇敬を受けたとされる。明治に別当の配下から離れ村社となり、多くの神社を合祀したが、蓑山に鎮座する蓑山神社だけは由緒の古いことから椋神社奥社として残されたという。

 

蓑山神社社記によれば「当奥社は蓑山上にありその昔秩父彦命開発之際、たまたま霖雨あり人民大いに困苦するにより、衆人率いて蓑山に登り清地を求め神籬を立て祈晴祭を行ふにたちまち晴天となるにより傍の松樹に蓑を懸置たればこれを蓑懸松という」とある。

また山の中腹に鎮座する善女竜王社の由緒にはこう記されている。

平安の昔、京都醍醐の山で修業した歓喜坊という僧が武蔵国に下り、蓑山の中腹深い沢の地に庵を立てた。その庵の傍らには湧水の絶えない池があった。ある年日照りが続き、村人が困窮すると領主は歓喜坊に雨乞いを命じ、池のほとりに神籬をたてて龍神を招魂して祈念すると慈雨たちまち降り注ぎ万物が蘇った。土地の人々は池を龍神池と呼び社を建てて信仰するようになった。これが善女竜王社とされる。

明治の大火にて社殿焼失するも平成の御代に再建される。ご祭神は善女竜王。仏説によれば娑伽羅竜王の三女。降雨を祈祷する「請雨法」の本尊。

風土記稿によれば皆野村は陸田が多く用水は蓑山から湧き出る谷川の水とため池を利用したとされる。荒川沿いの水田はたびたび日照りによる被害をこうむったと伝えられている。このような土地であったことから古くから雨乞いは重要な行事とされ、人々の切実な願いを映しながら信仰として受け継がれてきたことが分かる。戦後になっても昭和三十一に雨乞い神事が行われたことが記されている。

紅葉の美しさと共に秩父路の歴史の息吹にふれられた貴重な晩秋の旅となった。

 

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紅葉の秩父路へ

2018-11-19 18:30:30 | 日記

穏やかな霜月の陽気に誘われて、秩父路の紅葉狩りに出かけてみました。春の桜と対になる秋の紅葉の美しさに、日々の忙しさを忘れ自然の良さを満喫してきました。

皆野町にある箕山公園です。標高586mの美の山は秩父連峰において珍しい独立峰で、周囲の山々が見渡せます。昭和54年埼玉の桜の名所を造ろうと10年かけて桜を栽植し、自然公園としました。二十歳過ぎの頃、初めて乗った車で中学時代の同級生と夜な夜な車でドライブに来ていました。夜景もきれいで、紫陽花など四季折々の花を楽しむことができます。公園内には8000本の桜があり、春になると山全体が桜色に染まるそうです。

長瀞に戻り、岩畳から宝登山神社まで短い時間でしたが紅葉の散策を楽しみました。

最後に寄った月の石公園の紅葉は美しくまた高浜虚子の句が読まれていました

ここに我 句を留むべき 月の石

いつの時代も自然の美しさに心動かされる人は多かったのでしょう。

 

 

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ちはやぶる 神代もきかず

2018-11-18 22:10:38 | いろはにほへと

ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川

 からくれなゐに 水くくるとは   在原業平朝臣

 神々の世であった昔にも聞いたことがない。龍田川の水面に紅葉が散り敷いて、川の水を鮮やかな真紅ののしぼり染めにしているとはなんと美しいことだろう。

 百人一首で紅葉の歌は六首あるという。また桜の歌も同じく六首。今日でも春の桜に対し秋の紅葉が日本の四季を表す風景となっている。紅葉の鮮やかさは錦織の着物に例えられ「紅葉の錦」と読まれたという。布や着物にちなんだ表現が多いのはそれが読み手である貴族の生活で大切にされていたことの表れだという。

 在原業平は六歌仙の一人で、「伊勢物語」の主人公。天皇の后になる女性との熱烈な恋で知られた貴公子。

この歌にも業平の歌人としてのスケールの大きさが表れているという。

どことなく花輪君をイメージしてしまう・・・

 

 

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佐間古墳群 大日塚古墳

2018-11-17 22:05:51 | 史跡をめぐり

行田市文化財埋蔵センター内にある史跡

大日塚古墳。6世紀後半の築造で直系18mほどの小さな円墳と考えられている。佐間古墳と呼ばれ、数基の円墳が存在していたことが分かっている。昭和52年の発掘調査で箱式石棺の上に粘土郭2基が検出されたという。粘土郭からは刀や鉄鍬、人骨片などが見つかっている。

築造時期が埼玉古墳群の稲荷山古墳と同時期とみられ、関連性があると考えられている。

かつて墳頂部にには板碑があり、大日種子板石塔婆と呼ばれ埼玉県有形文化財にしてされている。嘉禎2年(1236)に左近将監が父母の供養に造立したものとされる。板石塔婆は板碑と呼ばれ、鎌倉時代以降盛んに作られたという。秩父青石といわれる緑泥片岩を使った石碑で死者の霊を鎮めるための供養塔のようだ。埼玉古墳を中心として市内の所々に古墳が見られ、古代史に誘われる要素がこの地にはあふれている。

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佐間 諏訪神社

2018-11-17 21:18:55 | 神社と歴史 忍領行田

地名誌によれば佐間の地名はマは湖沼を表し、サは接頭語であることから、古来より沼地であったと考えられているようだが、佐間という地名がいつごろから用いられたかははっきりしないという。ただし埼玉古墳の北側に下ったところにある大日塚古墳にある板碑は嘉禎二年(1236)に左近将監が父母の供養に建てた石塔婆とされ、この地域が鎌倉期より開けていたことが分かっている。

佐間の神社といえば天神社で忍城佐間口の鎮守としてまた忍沼の樋の隠し場所として重要な位置にあったが、それより南1キロほどの所に小さな古墳上に社が隠れている。佐間の諏訪神社である。埼玉の神社に記載はなく、この地に諏訪社が祭られていることを知らなかった。

口碑によれば、成田氏長が天正年間創建したとされ、長野の諏訪大社に習い、下社として祀ったと伝えられている。当然上社は忍の総鎮守諏訪神社で、祭神は建御名方神。忍の諏訪神社が男神、佐間の諏訪神社が女神とされる。諏訪大社と同じく上社の男神が下社の女神の所に通う伝説が付随するという。

現地は文化センターみらいの裏にあり、周囲を住宅に囲まれるようにあるが、明らかに小高く盛られた区画にあり、小円墳であったことが分かっている。忍の諏訪神社ももとは持田村の沼尻にあったものを遷したと伝えられていて、成田氏の諏訪社への信仰の深さが見て取れる。

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