皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

市民大学北武蔵紀行

2018-11-08 17:30:30 | 生涯学習
行田市民大学9期生歴史文化班の活動として、神社を中心に地域に残る逸話伝承を巡る紀行に出かけました。
真名板高山古墳と薬師堂からスタートしました。昔盗まれた手無し薬師様は江戸の萱場で鞴にかけられて、以来鞴の嫌いな薬師様と言われます。お詫びに贈られたのが立派な山門です。
羽生市下川崎の田中神社です。『十日夜、忍の鉄砲に負けるなよ』と藁鉄砲を子供が打ったと伝わります。
須加の熊野神社にあった聖天様は松で燻り出されて妻沼に追いやらてから、松が嫌いになりました。
下池守の子安神社には、浅野長政忍城攻めに際して、観音様を焼かれるのを恐れた氏子が土に埋めて柏の木を植えたといいます。
忍の行田の昔話を中心に、各地に伝わる逸話や伝承を読みながら現地を巡ると、歴史の息吹に触れるようで、一層興味も湧き仲間との旅はとても楽しいものでした。
昼食は加須市まで脚を伸ばしました。半日の旅ではありましたが、霜月とは思えないほど暖かく、無事に終えることができました。
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下川上 愛染堂

2018-11-06 19:14:34 | 神社と歴史

 立冬を迎える季節に本降りの雨の一日だった今日、熊谷市下川上の愛染堂に立ち寄った。以前熊谷市中奈良に勤めていた頃、この近くを通っていた。郷土史に興味もなく、ただ毎日会社までの車をただひたすら走らせた日々を思い出す。

 明治22年(1889年)町村制施行により池上村、下川上村、上池守、下池守、中里村、小敷田、そして皿尾村の7村が合併し、北埼玉郡星宮村が成立した。当時村内を流れる星川と古宮用水があり、一文字をとって『星宮』村としたという。また7つの村が合併したことから、北斗七星になぞられたともいう。昭和30年に行田市に編入。同年10月に池上、下川上は住民の希望により、熊谷市に編入されている。

現在でも両市に『星宮小学校』があり、昭和58年に行田市星宮小が現在の場所に移転するまで、僅か300mしか離れない地に両校は併存していた。私自身その行田の旧校舎に通った最後の世代だ。今では行政区の垣根を超え毎年7月に七夕集会として両校の交流が続いているという。

宝乗院愛染堂の愛染明王は、9世紀のはじめ、一本の銘木から彫られた仏像がこの地に流れ着いたとの伝承があるという。現在の仏像は江戸時代の前期の作で熊谷市の指定文化財となっている。

「愛染」と「藍染」との語呂から関東一円の染め物業者の信仰を集め額の奉納や修理修繕が重ねられ、庶民信仰の文化財として今に伝わるという。愛染明王は密教における尊像の一つで、大日如来を本地とする明王といわれ、息災と得福をもたらしてくれるという。全身が真っ赤なのは太陽と大慈悲の象徴ともいわれる。

村の禁忌にトウモロコシを作らないとされる。

その昔下川上の愛染様と江南の野原文殊様が戦をした際、愛染様は負けてしまい、帰る途中にトウモロコシの葉で目を傷めてしまったという。

村人は愛染様の怒りにふれぬようトウモロコシをけして植えることはなかったという。それでもおさまらない愛染様はお堂の前三間を焼き払ったとされている。

とうもろこしを植えてはならないという禁忌は各地の残っている。おもな言い伝えに殿様、領主が目を突いたなどというのが多い。栽培効率が良く、米からの転作を戒める意味合いがあったのではないかと考えられる。

隣接する熊谷星宮公民館の前にはきれいな秋桜が雨に濡れていた。

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晴れの特異日

2018-11-04 22:26:46 | 日記
文化の日は晴れの日が多い。かなりの確率で晴れるとされる。秋の深まりと共に気象が安定する時期なのだろう。しかも前後の日と比べて格段に晴れの確率が高いという。その日を特別に『晴れの特異日』とするようだ。統計上明らかで、そうした気象の特異日というのは、世界各国であるという。反対に雨の特異日は3月30日などがある。神社の上に広がる真っ青な空の色が好きだ。昭和21年、日本国憲法が公布された年もこうした青空が広がっていたのだろう。
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柚餅子と脱酸素材

2018-11-03 22:47:13 | 食べることは生きること

先月の茂木町への旅でお土産にした柚餅子。東北や関東では柚子よりもクルミを使った餅菓子が多いとされている。由来は鎌倉時代まで遡る。米の収穫時にできる壊れた米を米粉にして醬油や砂糖を合わせて蒸したものだ。蒸す前に2本の指でぎゅっと押したことから「ゆべし」と名付けられたという。

 ところで道の駅やサービスエリアを始め地元の和菓子を大量に販売するところでは、多くの種類の菓子類が賞味期限もある程度長く設定されている。流通販売にとって在庫を抱えながらロスも抑えるのに販売期限は長い方が扱いやすい。多くの商品が日持ちさせるため個々の菓子を個別包装し、酸素を取り除くことで酸化を防ぎ商品劣化を防いでいる。脱酸素材といわれるものだ。

密閉した容器に混入し鉄の酸化を利用して酸素を吸収したり、糖などの酸化反応を利用したりする有機系のものも開発されている。

今回使われていたものはアイリスのサンソカット。しかしそのシェアナンバーワンは三菱ガス化学の「エージレス」。1977年に商品化され安全性が確認されると仙台銘菓「萩の月」に同包され、保存料を使わない生菓子が賞味期限を延長し贈答、土産用として販路を拡販すると、食品と脱酸素材を同包する方法は一気に広まったという。

以前菓子原料の流通に関わっていたころ、エージレスを始め、上野製薬の「オキシーター」、日本化薬の「モデュラン」など様々なメーカーが開発販売していることを知った。またエージレスの様に先行開発メーカーの優位性を現場で肌で感じることができた。人に先んじて作り出すことに価値があるのだろう。やはり脱酸素材といえばエージレスだ。

食べ物だけではなくその保存方法が進化して、より価値のある物が多くの人に届けられていく。購入してひと月近く立った柚餅子の食感もなかなかのものだった。

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真名板高山古墳と薬師堂②

2018-11-03 20:32:07 | 史跡をめぐり

真名板の地には江戸時代「花蔵院」という真言宗のお寺があったという。明治になって廃寺となり現在は薬師堂を残すだけとなっている。

本像が残っており埼玉県の文化財に指定されたのは平成17年3月。銅の滑らかな質感とうつむき加減静かな面立ちが特徴で両手が失われていることから「手無し薬師」として地域の信仰を集めているという。そばに立つ石碑と同じ鎌倉時代の作とされる。

この薬師様は金剛仏で高さ九十四センチもある立派な姿で、その重さから「金」がたくさん入っていると思われていた。江戸の昔お堂に泥棒が入り薬師様を盗み出してしまったという。江戸で売り出されてしまった薬師様には手がなく、仏像としては売り出すことができない。そこで古物商は「金」を取り出すために鋳物師に送ってしまった。鋳物師はその盗まれた仏像の由来を知らずに、金を取り出そうと仏さまを七日七晩寝ずに鞴にかけたという。ところがいつまでたっても仏さまは溶け出さない。それどころか鋳物師はもちろん、家族をはじめ周囲の者みな高熱にうなされるようになってしまった。そこで祈祷師に見てもらったところ「これは北の方にあった霊験あらたかな薬師様で早くお返ししないと萱場の町一帯が熱にうなされる」ということで町中で薬師様の出所を探し回ったという。それが真名板薬師様で萱場の人々から大層な見送りをされて行田の地に戻ったという。その時に寄進されたのが立派な山門とお堂であるという。また萱場町でも悪霊消散の記念として薬師堂が建立され「萱場町薬師堂」として残っているという。

無事に戻った薬師様であったが、真名板の地では鍛冶屋鋳物屋が薬師様に近づくと手足が動かなくなり、終には夜逃げをするようになったという。以来「薬師様は鞴(ふいご)が嫌い」といわれるようになり鋳物師たちは遠くに仕事場を遷したという。

行田市の天然記念物に指定された樹齢700年を数える3本の大銀杏に囲まれるように、美しい山門は今日も真名板の町並みを静かに見守っている

 

 

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