気軽に茶道をしてます。

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八窓庵で「大和の三茶室」とは

2017-12-18 15:17:50 | 日記
今朝の奈良の最低気温は0℃と寒くなりましたが、陽の光が
居間にまで射し込み、昼前には暖房もいらなくなりました。
今朝から自宅稽古の予定でしたが、ご都合が悪くなられ、
頂いた時間で、初釜の会記を完成させなければなりません。
パソコンに向かっておりますと、つい眠気が・・・

昨日は奈良国立博物館の茶室「八窓庵」での茶事のお手伝いに。
『春日若宮おん祭り』は寒くなると言われる通り
お昼の外気温は5℃と寒い一日で、お出での方々は
  
館内の受付を済ませ、外の庭園へ出られてから、
『八窓庵』へ行かれるのですが、さぞ館外での案内係の方々は
大変だったでしょう。
  

明治の廃仏毀釈で失われた文化財は数知れず、特に私寺の
興福寺の廃仏毀釈での惨状は目も当てられません。
茶室もその運命に。
奈良には江戸時代終わりまで「大和の三茶室」がありました。 
・「八窓庵」は興福寺の大乗院の茶室「含翠亭(がんすいてい)」
 ともいい、江戸時代中期に建てられた古田織部好みの多窓式
 茶室(四畳台目)で明治25年に奈良国立博物館内へ移築


・「六窓庵(ろくそうあん)」は興福寺塔頭慈眼院の茶室で
 現在は東京国立博物館北側庭園内の5茶室の一つで、
 1650年頃に建てられた木造平屋建て茅葺き、3畳台目出炉で
 二重露地を備えた金森宗和好みになります。
   
            (東京国立博物館HPより)
 明治の初年、画工高階在晴が買い取り、明治8年に博物館が
 買い取り、解体後東京へ舟で輸送中伊豆にて座礁、流れ着い
 た材を集めて明治10年に移築、さらに明治14年に増築。
    
詳しくは、重森三玲著茶室茶庭辞典によると、 
”六窓庵は原と大和国奈良市なる興福寺の寺中、慈眼院と名づく
る寺にありて、慶安年中(1648~1651)茶博金森宗和の創建に
かかり、天下有数の茶席として、茶家者流の規矩とせしもので
あります。然るに興福寺も縷々火災に罹り、漸次衰頽に赴くに
随ひ、この慈眼院も遂に無住となりて、有名なる六窓庵亦日々
荒れ行くまゝ、明治の初年、画工高階在晴之が腐朽するを悲しみ
、修繕を加へてこゝに住居いたしました。斯て未だいくばくと
ならざるに、在晴死去せしかば、再び誰守る人もなきにいたり
しを、明治8年東京帝室博物館の購求するところとなり、船に
積みて東京に送るに際し、会ゝ伊豆の岬に於いて難破し、全部
水底の藻屑となりしに、幸にして其諸材料某地に流れ寄りしを
蒐め、取不敢之を同館の後苑に建てられたのであります。当時
露地待合の儲もなかりしを、同14年12月、故古筆了仲に命じ、
更に勝手の後に二畳の勝手を始め、三畳の寄付、下腹雪隠、
中潜、砂雪隠を増築し、茶室の体裁を完ふせられた・・・”と

・「隠岐録(おきろく)」 東大寺塔頭四聖坊にあった
 茶室で「八窓庵」と名があり、珠光の茶室と言われています。
 明治の廃仏毀釈の時、風呂屋の薪物に売られるところ、 
 井上馨が35円(70万円位)で買戻し、解体、大坂港から東京へ、
 麻布本邸に移築され、明治、大正、昭和の三代に愛用されたが、
 第二次世界大戦終末の大空襲で灰燼に帰しております。
 この「四聖坊]は「茶人のサロン]ともいわれたそうで、
 正倉院の開封のおり、勅使のお茶の接待場になり、
 「八窓庵」の名が出ており、多窓式の茶室と思われます。
 (表千家さんのHPより抜粋加筆
国寺の東大寺でも廃仏毀釈の影響を受けていたのですね。

*茶室「隠岐録]が何時建てられ、
 どのような茶室だったのでしょうか、調べなくては!!! 

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