光文社古典新訳文庫が出版している「カラマーゾフの兄弟」(ドストエフスキー著 亀山郁夫訳)が好調な売れ行きだそうです。私もテレビや雑誌でも盛んに取り上げられているのを何度か拝見しました。書店に行っても売り切れていて手に入らない時もありました。ブームに押されて、というわけではありませんが、私も以前から少しずつ読み進めており、とうとう4巻まで来ました。ただ、私には世間で言われているような深い感動、感銘はあまり感じられず。どちらかといえば、何かを得てやろうというよりも、教養のために読んでいるのが動機としては大きいようです。
小林秀雄全作品24(新潮社)には、「文学と人生」をテーマに中村光夫と福田恆存、小林の3人が座談をした記録があります。そのなかで、小林はロシア文学について興味深いことを述べています。要約すると、小林は中学生(大正4)頃からロシア文学と出会い、トルストイ、ドストエフスキー、チェーホフ、ツルゲーネフなどを読み始めたそうです。彼の言葉を借りれば「買えばどうしたってロシアなんだ」とまるでロシア文学しか読みものがなかったかのような口ぶりです。そして、「ロシア文学には、日本人に何か近いものがある」と述べるのです。今、日本でロシア文学が親しまれる理由は、この「何か近いものがある」からなのでしょうか。
(「文学と人生」が掲載されたのは昭和38年8月『新潮』において)
私は、ロシア文学にはどうも馴染めないと随分前にブログで書いた覚えがあります。それは、私が「日本人に何か近いもの」を失ったせいなのでしょうか。あるいはロシア文学で補完されるべき「何か」が、すでに他の文学によって達成されたからなのでしょうか。その「何か」を考えることは、自己分析にもなって、大変に興味深いことなのではありますが、全く姿が見えてきません。ただ、メディアで「カラマーゾフの兄弟」は面白い、と聞かれるたびに、それほど強い刺激を受けない自分を寂しく思うのです。
小林秀雄全作品24(新潮社)には、「文学と人生」をテーマに中村光夫と福田恆存、小林の3人が座談をした記録があります。そのなかで、小林はロシア文学について興味深いことを述べています。要約すると、小林は中学生(大正4)頃からロシア文学と出会い、トルストイ、ドストエフスキー、チェーホフ、ツルゲーネフなどを読み始めたそうです。彼の言葉を借りれば「買えばどうしたってロシアなんだ」とまるでロシア文学しか読みものがなかったかのような口ぶりです。そして、「ロシア文学には、日本人に何か近いものがある」と述べるのです。今、日本でロシア文学が親しまれる理由は、この「何か近いものがある」からなのでしょうか。
(「文学と人生」が掲載されたのは昭和38年8月『新潮』において)
私は、ロシア文学にはどうも馴染めないと随分前にブログで書いた覚えがあります。それは、私が「日本人に何か近いもの」を失ったせいなのでしょうか。あるいはロシア文学で補完されるべき「何か」が、すでに他の文学によって達成されたからなのでしょうか。その「何か」を考えることは、自己分析にもなって、大変に興味深いことなのではありますが、全く姿が見えてきません。ただ、メディアで「カラマーゾフの兄弟」は面白い、と聞かれるたびに、それほど強い刺激を受けない自分を寂しく思うのです。