学芸員のちょっと?した日記

美術館学芸員の本当に他愛もない日記・・・だったのですが、今は自分の趣味をなんでも書いています

宇都宮、歴史をめぐる②

2010-09-16 22:05:35 | その他
宇都宮城を北にまっすぐ行くと、宇都宮の中心市街地になります。ここを東西に横断するように流れているのが、釜川です。「釜川」の由来は、釜川にかかる御橋(みはし)の下に穴のあいた大きな岩があって、そのかたちが釜に似ていたから、だそうです。

釜川については、昭和初期に宇都宮中心街で生まれ、今は作家として活動をされている方からお話を伺ったときがあります。なんでも強い雨が降ると、やたらと氾濫して、橋を流したそうです。特に宇都宮は東に比べて、西が低いために、大雨になると高さのない西側に水が集中して大変だったとか。そんな被害があったためでしょう。今は二層構造河川で整備され、氾濫することはなくなったようです。




ところどころにある石垣。野面積み、といえるのかわかりませんが、石を巧く配しているように見えます。釜川は整備されたとはいえ、側面の石垣には古さを感じます。江戸時代までさかのぼらずとも、古いものをそのまま生かしているようです。



これも側面の石です。石というよりも岩ですね。とても大きいものでびっくりしました。こうしたものがたくさん使用されています。河川整備のためにここまで大きな岩をわざわざ運んでくるとは思えませんから、やはりこの岩も相当に古いものなのでしょう。釜川の側面の石は、あまり気付かれないもののようですが、私は趣があって好きです。




これが御橋(みはし)です。宇都宮城側(南側)から北に向かって撮影しました。宇都宮城の城主がこの橋を通って、北側にある二荒山神社に向かっていたために、「みはし」と名づけられたそうです。ただ、この橋には意味があって、この橋の北側は一般庶民の生活エリア、橋の南側は武士の生活エリア、というように橋を境にして生活圏が区別されていたそうです。ですから、一般庶民は御橋を渡ることはできなかったとか。さて、釜川の由来ともなった御橋の下には、今も釜のかたちをした岩が残っているのだろうか、と思って見てみましたが、よくわかりませんでした。ちょっと残念!


今はまっすぐに流れる釜川も、江戸時代の頃までは渦を巻いた流れであったとか。江戸時代の地図をみると、たしかに釜川は円を書いたようなかたちで流れています。宇都宮は二荒山神社の門前町として栄えましたが、この神社の神紋は左巴(ひだりどもえ)なのです。人々は神社と釜川の流れに共通点を見出して、宇都宮を神秘的な場所と考えていたそう。川の流れひとつ取ってみても、とても面白いですね。

次回は二荒山神社をご紹介したいところですが、写真がありませんので…また近いうちに宇都宮を歩いて、改めてご紹介します。