学芸員のちょっと?した日記

美術館学芸員の本当に他愛もない日記・・・だったのですが、今は自分の趣味をなんでも書いています

正岡子規と田中恭吉

2010-12-08 22:06:43 | その他
人間が死と向き合ったときに何が表現できるのか。そうした意味において、私が興味を持っている人物が2人います。明治時代の俳人正岡子規と大正時代の画家田中恭吉です。2人とも結核を患い、若くして亡くなりました。(子規の場合は脊椎カリエスも発症)
 
子規が結核を発祥したのは21歳。鎌倉旅行中のときに喀血したそうです。抗生物質による治療がなかった当時、結核は不治の病。喀血した時は自分の運命に嘆いたことでしょう。しかし、子規は病にもめげず、時間がないとばかりに本格的な句作、随筆、評論を次々に書き始めます。よく云われることですが、子規は自分の病を客観的に捉えていました。ですから、彼の作品には病気に対する切実な悩みや苦しみがほとんど感じられません。子規晩年の著書に『煩悶』がありますが、これは病気の身体が痛くて「苦しい」、「痛い」、「もうだめだ」といった言葉の羅列から始まり、そこから落語みたような話へつながって行くおかしな小説です。子規は晩年でさえも、病気や死に対して、ときおり滑稽さも交えながら作品を書きました。彼は35歳で亡くなります。
 
一方の画家田中恭吉。明治25年に和歌山県に生まれ、東京美術学校で日本画を学びます。明治45年20歳のときに竹久夢二と知り合い、木版画に興味と関心を抱くようになりますが、翌年喀血。くしくも子規と同じ21歳でした。やはり彼も時間がないとばかりに、喀血後に必死で木版画を彫り始めます。しかし、彼にとって不幸だったのは、子規よりも結核が重症であったこと。友人の恩地孝四郎、藤森静雄とともに日本で最初と言われる版画同人誌『月映』(つくはえ)を刊行するも、23歳でこの世を去りました。彼の残した作品はおどろおどろしいまでの恐怖や苦悩がひしひしと伝わってきます。田中は世紀末芸術、特にムンクに影響を受けているとされ、それが己の病や死の恐怖と組み合わさりました。田中の版画はその表現力の高さが評価されています。彼の病は重症だったため、子規とは異なり、己を客観視する余裕などなかったのかもしれません。しかし、逆に主観的であったからこそ、すさまじいまでの作品を作り上げることが出来たともいえるでしょう。

文学と絵画とはいえど、病に冒されながらも自分の仕事をし続けた2人。彼らが死と向き合ったときに残した作品は対照的なものですが、どちらからも生命力の強さを感じます。私は至って健康ですが、仮に私が死と向き合うことになったら、それを主観的にみるか、客観的にみるか…今は何ともわからないところです。