語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【言葉】恥ずかしいこと

2010年04月23日 | 批評・思想
 君の肉体がこの人生にへこたれないのに、魂のほうが先にへこたれるとは恥ずかしいことだ。

【出典】マルクス・アウレーリウス(神谷美恵子訳)『自省録』(岩波文庫、1956)
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書評:『木のぼり男爵』

2010年04月22日 | 小説・戯曲
 「われわれの祖先」三部作の第二。
 1767年、主人公コジモ・ピオヴァスコ・デ・ロンドー12歳の時に物語は始まり、コジモ65歳の時に終わる。すなわち、コジモがひとたび樹上で暮らすと決意してから、通りかかった気球の錨の綱に飛び移って海上に消えるまで。

 これは鞏固にして首尾一貫した意志の賛歌である。ひとたび生き方を定めて後は、断固揺るがぬ意志。
 もっとも、実践にはいささかの難儀をともなった。小用のしかたを工夫し、草原のはてへ駆け去っていく恋人に涙し・・・・すべて高貴なものは稀れであるとともに困難である(スピノザ)。

 ところで、小説の舞台はリグリア地方にある架空の自由都市オンブローザだ。ジェノヴァ共和国の保護下にあったが、物語の進行につれてフランス、オーストリア帝国、サルディーニャ=ピエモンテ王国の勢力地図が塗りかわり、男爵一族も小さからぬ影響を受ける。
 コジモは、フランス軍に与してゲリラ活動を行う。コジモの姉の夫は、オーストリア帝国軍の指揮官として出世する。コジモの弟、つまり語り手は、ロンドー男爵家を継承し、大国の勢力の消長の余波を受ける。一族の運命は、一律ではないのだ。

 本書は、時代の政治的縮図のみならず、思想的縮図も用意する。
 読書に憑かれた山賊と出会ったコジモは、自らも読書人となって、ヴォルテール、ルソーからディドロまで、啓蒙思想を読み耽る。生ける『百科全書』となったのだ。

 奇想天外な主人公の生きざまにふさわしく、本書には遊びが随所にしかけられている。
 プルターク『英雄伝』やトルストイ『戦争と平和』の本歌取りがそれだ。

 ひとたびは銃の威力で森から狼を追い払って里人に感謝されたコジモだが、老残の身となると厄介者扱いをされる。
 手を翻せば雲と作り、手を覆せば雨。紛紛たる軽薄、何ぞ数うるを須いん。
 盛唐の詩人は痛烈な皮肉をはなち、コジモは、といえば腐っても鯛、冒頭で紹介したとおり、特異な生涯を自ら颯爽と完結させるのであった。

□イタロ・カルヴィーノ(米川良夫訳)『木のぼり男爵』(『新しい世界の文学16』、白水社、1964)
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書評:『緊急深夜版』

2010年04月22日 | ミステリー・SF
 発行部数50万部のコール・ブリティン紙の記者サム・ターレルのもとに、匿名の密告が入った。リチャード・コードウェルは、やくざの情婦と交渉がある、という情報であった。
 コードウェルは、4期にわたる現市長一派の腐敗を衝き、市政改革を錦の旗印に決起した弁護士だ。
 怪訝な思いで取材していくうちに、その情婦の殺害容疑でコードウェルが逮捕された。

 事件発生の頃に付近を通りかかったコグラン巡査は、現場から逃走した怪しい人物を目撃したが、この報告を上司のスタンコ警視は握りつぶした。
 サムは信頼するカーシュ編集局長に相談し、コグラン巡査と接触を図る。
 しかし、コグラン巡査は、証言を約した直後、亡くなった。コグラン巡査が死去したホテルを管轄する警察署は、他殺の疑いを抱くが、なぜかスタンコ警視たちは強引かつ一方的に自殺と宣言する。

 サムは、別の証人コニー・ブラッカーから事件の全貌を明かにする証言を得て、緊急深夜版の原稿を書きおろした。
 しかし、コニーは何者かの手で連れ去られてしまった。サムは茫然とするが、社内におけるある電話のやりとりが耳に入って謎が氷解する。
 コニーを救出するべく、そしてコードウェルの冤罪をはらすべく、切迫した状況のなかでサムは行動に移った・・・・。

  *

 ウィリアム・アイリッシュ『暁の死線』からマイクル・クライトン『タイムライン』まで、残された時間が刻々減っていくところに生じる緊迫感がサスペンスをうむ。本書にもこうしたサスペンスの要素があるが、主眼はあくまで、権力の妨害をはねのけて事実をあばいていく点にある。本書は、正統的なミステリーだ。
 ダシール・ハメット『血の収穫』のコンチネンタル・オプは、隠された事実をあばくと同時に、腐りきった町の浄化を実力行使した。
 本書の主人公は新聞記者だから、最終的な目標は直接行動ではなく、事実を大衆とともに広く共有する点にある。事実を知った大衆は、しかるべき行動に移るであろう、という期待がある。

 わが三好徹も探偵する新聞記者を好んで描いたが、三好作品の主人公は、必ずしも常には、真実を大衆とともに広く共有しない。たとえば天使シリーズの場合、主人公は、事実を積極的には隠さないが、積極的には伝えないことで、結果として真実について沈黙することがしばしばある。事実は、真実の一部にすぎない。
 本書の原著は1957年に刊行された。マッカーシズムが一応終焉を迎えたのは1954年の暮だ。
 新聞の使命、多数の正義を愚直に信じる主人公に、ちょっと感動を覚えないでもない。

□ウィリアム・P・マッギヴァーン(井上一夫訳)『緊急深夜版』(ハヤカワ文庫、1981)
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【詩歌】砂漠のバラード

2010年04月21日 | 詩歌
 みそかの晩とついたちは
 砂漠に黒い月が立つ。
 西と南の風の夜は
 月は冬でもまっ赤だよ。
 雁が高みを飛ぶときは
 敵が遠くへ遁げるのだ。
 追はうと馬にまたがれば
 にはかに雪がどしゃぶりだ。

 雪の降る日はひるまでも
 そらはいちめんまっくらで
 わづかに雁の行くみちが
 ぼんやり白く見えるのだ。
 砂がこごえて飛んできて
 枯れたよもぎをひっこぬく。
 抜けたよもぎは次々と
 都の方へ飛んで行く。

□宮沢賢治『北守将軍と三人兄弟の医者』(『新修宮沢賢治全集 第13巻』、筑摩書房、1980、所収)
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【読書余滴】加藤周一の『今昔物語』論

2010年04月20日 | 小説・戯曲
 『日本文学史序説』(ちくま文庫)上巻pp.260-272によれば、概要つぎのとおり。

(1)成立年代
 12世紀前半。1120年頃という説が有力。

(2)著者
 不明だが、大寺の僧が説教の材料として編集したらしい。
 大衆に向かって話すため僧侶が読むことを期待して編まれたらしい。
 文章には明らかな統一がある。

(2)舞台と登場人物
 『源氏物語』や『大鏡』が京都を舞台とし、貴族社会を対象としたのに対し、『今昔物語』では日本六十余州のほとんどが舞台となり、皇族や貴族、僧侶や学者のみならず社会各層のあらゆる人物が登場している。

(4)仏教
 『今昔物語』の仏教の功徳は、主に浄土、生命の危機脱出、蘇生、富の4カテゴリーに要約される。
 『今昔物語』の仏教は、平安時代の二大宗派、天台と真言をふまえ、10世紀末から盛んになった浄土教の著しい影響を加えていた。
 『今昔物語』の仏教は、来るべき鎌倉仏教と異なり、人生に対して否定的であるよりは肯定的、悲観的であるよりは楽天的である。
 『今昔物語』の仏教の彼岸性は、『往生要集』以後の日本浄土教に負う。編者の意図は彼岸性にあったかもしれないが、話の大多数が此岸的であるのは、大衆の態度の忠実な反映と考えられる。

(5)脱仏教
 仏教と関係ない話も少なくない。
 それどころか、しばしば痛烈に偶像破壊的な調子さえも帯びることがある。

(6)性
 『源氏物語』以後の宮廷文学は恋愛心理から性的倒錯に向かったが、『今昔物語』の性は直接的、即物的である。
 編者の性的平等主義は、宮廷を例外としなかった。
 『今昔物語』と『源氏物語』およびそれ以後の宮廷文学との著しい違いは、前者になんの禁忌もなく、後者に禁忌が多かった点にある。性的平安時代は、二面性をそなえ、その二面性は支配層と被支配層の社会構造と密接に結びついていた。

(7)人物世界
 『今昔物語』の人物世界は、また行動の世界である。
 行動の世界は、主として「巻25」にあつめられた武士の話に典型的である。ここでは、単に行動的であるのみならず、初期の武士層の価値体系を見事に体現している。

(8)先進性
 「けだし『今昔物語』の偉大さは、現にあるものを直視して描き切ったということにだけあるのではない。やがて来るべきものさえも、見ぬいていたということにある。鎌倉時代、--あのおどろくべき転換期は、ただ12世紀前半のこの作者にとってだけは、すでに戸口まできていたのである」

(9)その他
 短い説話をあつめ、説話をおおまかに分類しているが、その分類以外に全体をまとめるどのようなすじ立ても指導的な思想もない。(『序説』上巻p.22)

 日本文学の社会学的特徴の一つは、作家がその属する集団によく組みこまれていたことだ。そして、その集団が外部に対して閉鎖的傾向をもっていたことだ。
 それは、文学が支配階級の文化または支配体制の全体へ組みこまれていたことをしめす。
 ただし、支配階級に組みこまれないで逃避する「隠者文学」もあった。「隠者」は文壇という集団に組みこまれた(五山の禅僧たちの詩壇、大衆社会の同人雑誌、ほか)。
 文学者が集団へ組みこまれるこのような傾向は、日本文学の素材を限定した要因である。
 『今昔物語』本朝篇は、偉大な例外であった。(『序説』上巻pp.29-32)

 『今昔物語』(本朝篇世俗)の世界観的背景に「日本化」された外来思想のあらゆる段階があった。(『序説』上巻p.41)

 「『今昔物語』(本朝篇世俗)の徹底した現実主義」(『序説』上巻p.78)。

 「稀にみる散文家」(『序説』上巻p.134)。

 9世紀末10世紀初(推定)には、まったく対照的な『竹取物語』と『伊勢物語』があり、前者はその緊密な構成において、後者は心理的に微妙な状況の多様性において『土佐日記』を抜いていた。両者が出会うとき、平安時代の散文の最高作品、『源氏物語』と『今昔物語』が成立した。(『序説』上巻p.170)

 「実際的な厳正主義、此岸的な世界観」(『序説』上巻p.187)。

 『今昔物語』の呪術的な奇蹟譚・・・・天台の浄土宗との共通点は「念仏」以外にない。これは「念仏宗」であるかもしれないが、「浄土宗」ではなかろう。大衆の関心は、死後浄土へ行くかどうかではなく、今此処で何がおこるか、という点に集中していた。(『序説』上巻p.196)

 「『今昔物語』(本朝篇世俗)以来の土着世界観」(『序説』上巻p.403)。

【参考】『日本文学史序説』上巻(ちくま文庫、1999)
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【読書余滴】半可通批判

2010年04月20日 | 批評・思想
 『日本人とユダヤ人』 は、単行本および文庫本をあわせて300万部以上が売られ、第2回大宅壮一ノンフィクション賞(1971年)を受賞し、一説によれば「いざや、便出さん」に由来する筆名イザヤ・ベンダサンこと山本七平の懐をおおいに潤わせた。

 山本七平がその文才を発揮して儲けるのは、山本七平の自由である。
 と同時に、正確ではない情報を頒布することで、活字を信じやすい日本人をたぶらかした罪は山本七平が負わなければならない。
 旧約聖書学的見地から、『日本人とユダヤ人』をこてんぱてんにやっつけたのが『にせユダヤ人と日本人』である。

 たとえば、山本ベンダサンは、新約聖書には「神の小羊」といった表現が実に多いというが、じつのところヨハネ福音書第1章の29節と36節に2回登場するにすぎない、と実証する。
 あるいは、新約聖書ヨハネ黙示録第6章8節の文語訳「蒼ざめた馬」は原典の意味もわからず何となくムードに惹かれた日本人の誤訳だ・・・・と山本ベンダサンは指摘するが、実はこれはまったく正しい訳であって、誤訳と思いこんでいるのは世界広しといえども山本ベンダサンだけだ、と皮肉る。

 著者、浅見定雄は、宗教学者。専門は旧約聖書学、古代イスラエル宗教史。日本のカルト問題にも取り組む。

【参考】浅見定雄『にせユダヤ人と日本人』(朝日文庫、1987)
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書評:『ベルリン・コンスピラシー』

2010年04月20日 | ミステリー・SF
 A・J・クイネルはすでに亡い。ディック・フランシスも鬼籍にはいった。読書の楽しみが減るばかり。
 と慨嘆していたら、嬉しいことにマイケル・バー=ゾウハーの新作が手元にとどいた。本書である。1995年に邦訳された『影の兄弟』以来の小説だ。
 エスピオナージの巨匠、健在なり。
 はたして、重厚にして緻密。期待を裏切らない作品だ。

 A・J・クイネル作品の特徴を二つの熟語であらわすならば、戦士と人情だ。ディック・フランシスは競馬と不屈。この伝でいけば、バー=ゾウハーは、ユダヤ人と謀略ということになるだろう。
 本書も、ユダヤ人と謀略で総括できる。
 ロンドンに投宿したアメリカ国籍のユダヤ人実業家、ルドルフ・ブレイヴァマンが目をさますと、そこはベルリンのホテルだった。そして、殺人罪の容疑で逮捕される。『審判』のカフカ的状況だが、謎はルドルフの息子、ギデオンの尽力によりだんだんと解明されていく。そこで明らかになったのは、複数の国々の高官がからむ大がかりな謀略だった。ホロコーストを生きのびた一人のユダヤ人を犠牲にして・・・・。

 敵とみえた人物が味方、味方とみえた人物が敵、陰謀の背後にまた別の陰謀、といった展開もあって、バー=ゾウハーのファンは堪能するのだが、不思議に思うのは、いま、なぜホロコーストか、という点だ。
 しかも、ルドルフが逮捕された容疑は、ホロコーストに関与したナチの残党狩りに係る。

 バー=ゾウハーは、職歴のさいしょが新聞社の特派員であったことからも察せられるように、事実への関心がふかい。『復讐者たち』『ダッハウから来たスパイ』のようなノンフィクションも残している。つまり、フレデリック・フォーサイスと同様、事実を可能なかぎり洗いだしたうえで、知られざる部分に想像力を注入するのだ。本書も著者がしらべた事実をふくらませている。そこに盛りこまれたフィクションも、いたるところで事実が裏打ちしている。
 ただ、フォーサイスと異なるのは、バー=ゾウハー作品の底には常にユダヤ人の運命というテーマが流れている点だ。実生活でも、バー=ゾウハーはイスラエルの行政マン(国防相の報道官)や国会議員をつとめた。
 してみれば、本書には、21世紀のイスラエル国民のアイデンティティを確認する意図があるのかもしれない。あるいは、昨今のイスラエル批判に対して国を擁護する意図が。もしかすると、本書で重要な要素を占めるネオ・ナチの台頭に係る警鐘かもしれない。

 いや、これはあまりにも図式的な解釈だ。
 ルドルフは使命に従事したことを悔いていないが、殺人という行為に嫌悪を覚え、後々まで悪夢に悩まされている。第三次および第四次中東戦争に従軍したバー=ゾウハーが到達したのは、生命を奪う行為そのものに対する根源的な疑問かもしれない。
 これに直接係ることばではないが、作中に印象的な一行がある。「ものごとに動じない屈強な男は、終わりのない地獄のなかに生きていたにちがいない」

 さいしょ敵対していた男女が、一転、深い関係になったりする甘さがあるのだが、この甘さがバー=ゾウハーのもうひとつの魅力ではある。
 人は、状況にクラゲのように翻弄される一方ではなく、また計算された行動ばかりではなく、主体的に、時としては衝動的にうごいたりもする。人が主体的にうごく契機のひとつは恋愛である。恋愛は、歴史となった過去においても謀略にみちた現在においても、本書において重要な役割をはたす。陳腐といえば陳腐だが、本書で語られる戦後まもなくの恋愛は、すこぶる切ない。

 ルドルフの主体性は、本書の末尾、恋愛とは別のかたちで発揮される。晩年の穏やかな幸福が約束されたはずだったが、個人を超えるなにものかのために自らを投げだす。
 困難な時代をしぶとく生きぬいてきた者には、余人にはないレーゾン・デートル(存在理由)があったのだ。

□マイケル・バー=ゾウハー(横山啓明訳)『ベルリン・コンスピラシー』(ハヤカワ文庫、2010)
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【読書余滴】風邪をひいたとき寝床で何を読むか

2010年04月19日 | ミステリー・SF
 星新一作品の魅力は、その巧みな話術にある。ショートショート、あるいは短編の命であるオチが効いている。が、すべての作品が水準を確保しているわけではない。
 本書に所収の短編11編のうち、よくできているのは『理想的販売法』。ネタばらしは仁義にもとるから公開しないが、有能なサラリーマンが有能なるがゆえに陥る悲喜劇(本人にとっては悲劇、アカの他人にとっては喜劇)が主題。さりげない最後の一行のパンチは、アカの他人をもたじろがせる。
 ただ、ラストで読者をうまくオトすためには、現実にはありえない状況を、『不思議の国のアリス』のように無理なく受け入れさせなくてはならない。その点、『契約時代』は設定された状況がいささかくだくだしく、理に走りすぎる。
 設定をシンプルにして成功しているのが『華やかな三つの願い』。西欧の名高い童話のパロディだが、きわめて現代的な三つめの願いたるや意表をつく。結末は、モラリスト星新一の面目躍如である。

 完成度という点では、表題作の『午後の恐竜』が質量ともに随一だ。端正な文体で、一見幻想的な物語が展開する。闊歩するさまが見えるが、触れることができない恐竜たち。もちろん物質的被害はない。
 これと同時に、もう一つ別の物語が進行する。こちらは核戦争の最前線に立つ司令部が舞台である。
 一方では幻想的なのどかさと、他方では世界没落の緊迫感と、両者が背中あわせに進行するコントラストが鮮やかだ。
 そして、結末で二つの物語の流れが交錯する。
 じっくり腰をすえて描きこんでいるから、読者は星新一ワールドに抵抗なく引きこまれる。
 冷戦を過去のものとしたの21世紀だが、核の危険が消滅したわけではない。『午後の恐竜』のもたらす恐怖は、依然としてリアリティをもっている。

【参考】星新一『午後の恐竜』(新潮文庫、1977)
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【言葉】ふしぎな分類

2010年04月19日 | 批評・思想
 ボルヘスの著作がふれている「シナのある百科事典」によれば・・・・

 動物は次のように分類される。(a)皇帝に属するもの、(b)香の匂いを放つもの、(c)飼いならされたもの、(d)乳呑み豚、(e)人魚、(f)お話に出てくるもの、(g)放し飼いの犬、(h)この分類自体に含まれているもの、(i)気違いのように騒ぐもの、(j)算えきれないもの、(k)駱駝の毛のごとく細の毛筆で描かれたもの、(l)その他、(m)いましがた壷をこわしたもの、(n)遠くから蝿のように見えるもの。

【出典】ミシェル・フーコー(渡辺一民・佐々木明訳)『言葉と物 -人文科学の考古学-』(新潮社、1974)
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書評:『スウェーデンはなぜ生活大国になれたのか』

2010年04月19日 | □スウェーデン
 スウェーデンの面積は約45万平方キロメートルで、日本の1.2倍あるが、人口は900万人強にすぎず、大阪府ほどの数でしかない。この小国が生活大国と呼ばれるのはなぜか。
 本書によれば、三段階のライフサイクルに応じた生活保障が体系化されている。すなわち、家族に未成年者(18歳未満)がいる世代、勤労世代(64歳まで)、退職した世代(65歳から)・・・・である。

 第一段階では、豊かな育児支援が特徴的である。育児休暇(手当は賃金の80%)や看護休暇(子ども1人につき年間120日間まで)があり、児童手当(16歳未満)や教育手当(高校在籍者)がでる。住宅手当も給付されるから、二世代家族にふさわしい大型住宅へ転居できる。保育所は完備し、教育費はすべて公費でまかなわれる。

 第二段階では、手厚い労働条件が特徴的である。5週間の年次有給休暇があり、通常夏季に一括して取得する(休暇期間中の手当は賃金の115%)。南国へ旅して日光を満喫する人も少なくない。長期間の休暇は、64歳まで働きつづけるエネルギーの源となる。

 第三段階では、地域生活の持続が特徴的である。それのみで生活可能な公的年金、入手しやすい良質な住居、きめ細かな在宅サービス、身体機能が低下したらサービス・ハウス、衰弱したら看護型ナーシング・ホーム、認知症が重度化したらグループ・ホームがある。
 年金を含めて公的サービスの財源は、すべて租税である(保険方式ではない)。所得税は、平均して収入の34~36%。一見おそるべき重税だが、可処分所得はすべて生活費やレジャーに充当できるから、「かなり沢山払っている」という程度の感覚である。スウェーデン人の家計簿に、貯金・教育費・医療費・生命保険の項目はない。

 1930年代から、社会政策と経済政策のバランスを巧妙に保ってきた。雇用創出、居住環境の充実にはじまり、低所得層を中間所得層へ押し上げて福祉への依存を減少させ、国民のすべてが自活できる階層まで成熟させる、という努力が重ねられてきた。
 独自の社会民主主義、草の根民主主義の風土がある。今なお高い組織率をほこる労働組合と全世帯の半数が加入する消費者組合。透明で不正を排除した政治。憲法で権威と地位を定められた国会オンブツマンと情報公開によって、これまたガラス張りの行政。そして、プラグマティカルな改革につぐ改革。
 スウェーデンも世界的な不況とEU統合の波に洗われて一時失速したが、出生率の微増、失業率の漸減、1998年度から国家財政の収支が黒字へ転じるなど、健闘している・・・・。

 本書は、スウェーデンが生活大国たるゆえんを多面的、総合的に解明して、間然するところがない。
 が、本書に記されるのは日本人研究者がみた20世紀末のスウェーデンである。その後10年余のスウェーデンは、ことにスウェーデン人自身のみるスウェーデン像は、別に求めなければならない。
 とはいえ、福祉が充実した国、というよりは「貧困をなくした生活大国」から学ぶに値するものは少なくない、と思う。ことに民意が国策に反映されやすいしくみは、いまの日本にもっとも必要とされているのではないか。
 ちなみに、スウェーデンでは政治に対する国民の関心が高く、総選挙投票率は8割を超す。投票しやすいシステム(郵便局投票、在外公館投票といった事前投票、これとセットの後悔投票)、比例代表制などの制度もさりながら、「信頼できる政治」 「国民ための政治」が国民の共通認識となっているからであるらしい。

 著者は、1936年台北生まれ。ストックホルム大学大学院(国際法専攻)卒。外務省専門調査員(在スウェーデン日本大使館)、ストックホルム大学客員教授、鹿児島経済大学教授、埼玉大学教授などを歴任した。

□竹崎孜『スウェーデンはなぜ生活大国になれたのか』(あけび書房、1999)
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【言葉】文明社会とは

2010年04月19日 | 批評・思想
池田(彌三郎) 東京がいいのか、江戸の引続きがいいのかわかりませんがね、あたしのうちは出入りの職人ていうのがたくさんいました。その職人が、昼間はみんなあたしのうちのお仕着せの半纏を着ましてね、汚れて裏口から入ってくるんですよ。ところがその職人が、お茶の師匠であり、お花の師匠なんですよ。
 あたしのうちの仕事を終わって帰りますでしょう。ちょっと湯に入って、小ざっぱりした着物に着替えて、羽織を着て、こんどはあたしのうちの玄関から入ってきます。そうすると、あたしの姉なんかのお茶やお花の師匠ですよ。今度はあたしの親父までもやっぱり下座にすわるわけです。

吉田(健一) それこそ文明ですよ。たとえばね、ロンドンに行くでしょう。ホテルで食堂に行くと、給仕さんが、英語だって敬語があるんですから、ちゃんと敬語を使いますよ。ところが翌日でも、同じ日でも向こうが非番になるでしょう。こっちもどっかに飲みに行ってばったり会う。そうすると対等ですよ、「やァ」とかなんとか言って。あれは、役割ができてないとできないですよ。

佐多(稲子) たいしたことですね。

吉田 つまり本質的には、人間上下はないでしょう。そんなことわかっている。だけど場合によって、こっちが上になったり、下になったりするからこそ文明でしょう。

池田 本当にそう思います。江戸時代からの伝統は、どんな身分であろうと、どんな職業であろうと、このことにかけては一芸に秀でてる人間というのは尊重されたんですね。江戸から東京にかけては、文明社会だったと思いますよ。

【出典】吉田健一『吉田健一対談集成』(講談社文芸文庫、2008)
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【読書余滴】わが出雲・わが鎮魂

2010年04月18日 | 詩歌
  やつめさす
  出雲
  よせあつめ 縫い合わされた国
  出雲
  つくられた神がたり
  出雲
  借りものの まがいものの
  出雲よ
  さみしなにあわれ

ではじまる実験的な長詩『わが出雲・わが鎮魂』は、詩の「わが出雲」と自註の「わが鎮魂」の二つで構成される。
 註は、ふつうは本文(詩編)に付属するものだが、この詩集の場合、本文(詩編)と同じ比重で註に力が注がれている。だから、註だけ読む、という読み方も成立する。
 「やつめさす/出雲」を「わが鎮魂」は註していわく、「『出雲』の枕詞としては『八雲立つ』がよく知られているが、ここでは『古事記』にある出雲建についての歌を下敷きにしている。/『やつめさす 出雲建が 佩ける太刀 黒葛多巻き さ身しなにあれ』/『古事記』においては、この初句が『八雲立つ』である他は同じ。(中略)なお、『やつめさす出雲』は『八(弥)芽刺す出藻』から来たものとされている」うんぬん。
 ところで、「わが出雲」は全13章で構成されるが、うちⅡの全編はつぎのとおり。

  すでにして、大蛇の晴のような、出雲の呪いの中にぼくはある。米
  子空港の滑走路は、ほおずきの幻でいっぱいだ。異国の男がずかず
  かと歩いている。あの男も天から来た。緑のひげを生やしたいかめ
  しい男。背広の右の袖口から突き出ている氷の棒。左の袖にかくさ
  れた金属の棒。だが、いまは、そんな男に、かかずらってはおれな
  いのだ。外交問題はこの次にしよう。

  屋代、

  安来、

  舎人(とね)、

  大草(さくさ)、

    出雲郷(あだかい)。

 米子空港は、弓ヶ浜半島の一角にある。弓ケ浜半島は、『風土記』時代には本土から離れた砂州で、「夜見の島」と呼ばれた。夜見は、黄泉に通じる。イザナギノミコト(伊弉諾尊)の妻イザナミノミコト(伊弉冉尊)が火の神を生んだ結果住むことになった黄泉の国は、ここ「夜見の島」にあった(という説がある)。
 「わが出雲」の主人公は、米子空港に降り立った瞬間に地獄くだりをはじめたわけだ。

【参考】入澤康夫『わが出雲・わが鎮魂』(復刻新版 思潮社、2004)
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書評:『旅大陸 オーストラリア』

2010年04月18日 | エッセイ
 著者は、毎年のようにオーストラリアを訪れている。
 たとえばエアーズ・ロックには、過去5回登った。加齢とともに「登岩」する時間が長くなってきた。この変化が、著者がこれまでいかにオーストラリアにのめりこんだかの指標となる。

 かくも著者をとらえて離さないオーストラリアの魅力とは何だろうか。
 広大な、あるいは岩漠ザ・ピナクルスのような奇勝か。
 コアラやジンベイザメのような、日本ではまずお目にかかれない動物か。
 コミック『美味しんぼ』が推奨するアボリジニの野生味あふれる味覚か。

 どれかに限定する必要は、ちっとも、ない。
 オーストラリア大陸のあれやこれやの総体に惹きつけられたのだろう。
 狭い島国日本でせっせと稼ぎ、地球の裏側の大陸へ出かけて稼ぎを費消する。善哉、善哉、それもまた人生。一生続く楽しみが一つあれば、人生、それだけで生きるに価する。

 本文に詳しい注がつく。注には書ききれない主題は、少し長めのコラムに展開させている。写真は鮮明だし、地図やカットも美しい。眺めて楽しいし、旅の気分を味わいつつ知識が得られる。これからオーストラリアに出かける人には役立つし、アームチェアー・トラベラーには楽しめる本だ。

□伊藤伸平『旅大陸 オーストラリア』(凱風社、1998)
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【読書余滴】無名人名語録、普通人名語録、一般人名語録

2010年04月17日 | 批評・思想
 無名人、普通人、一般人・・・・要するに、たまたま隣合わせることになった誰かのことだ。それはもちろん、あなたであり、職場の同僚であり、近所のおじいさん、おばあさんである。世に埋もれているように見えるが、事実埋もれているかもしれないが、その人なりに見るべきものはちゃんと見ている。ちゃんと見ていることは、ポロリと漏らす片言隻句で知られる。ただ、世に知られていないだけだ。名語録シリーズは、その場かぎりで失われてしまう運命にあった洞察、世に知られぬ警句を本に定着する。
 名語録シリーズの全編をとおして、誰が言ったかは記録されていない。だから、想像力をかきたてる。

   *

  東山魁夷の山の絵が自然を写すっていうけど、あのきちんと並んだ杉は、自然じゃありません。
  人間が植林して、手入れをきちんとして育てている山です。
  つまり、植林は杉や檜の畑であって不自然の美です。

   *

  寺山修司っていう人は惜しいことをしましたねェ、あの人が職業は何ですかって聞かれて、寺山修司をやっていますって言ったの、あれ、忘れられないなァ。

   *

  妙なものですね。ネクタイをすると、なんだか安心するんです。
  みんなと同じになったということか、組織の一員になったということか。
  ネクタイ一本で気分が変わるってのは・・・・。
  ちょっと恥ずかしい話ですねェ。

   *

  旅行をリョコウって読まないでさ、リョギョウって読めば、
  少しは厳しい感じがするけれどね・・・・

   *

  下町の人情ってよく言うけれど、人情を持ち出すようじゃ、その町もおしまいです。
  人情ぐらい頼りないものはありません。

   *

  暴力団がいなくなるようだったら、もうその町は活気が無いってことです。

   *

  政治家っていうのは、自分の選挙区しか歩いていないんだよね。
  日本中を歩いている政治家はいないんだから、日本が見えてくるわけがないよね。

   *

  私、歌舞伎が好きですなんて言っちゃうですけれど・・・・。
  よく考えてみると、私が好きなのは歌舞伎を観に行く自分が好きなんですよね。

   *

  インドから日本に来て、驚いたことがあります。紅茶にレモンを入れることです。
  安い、悪い紅茶を使っているからだと思います。

   *

  日本人妻という言葉があるのに日本人夫と言わないのは何故ですかね。

   *

  狂言では歩くと言いません。
  身体を運ぶと言いますね。

   *

  住宅ローンのこと、子どもの受験のこと、親の介護のこと、そして女房のことを
 考えているうちに自殺しちゃったんだって・・・・。
  駄目だよ、バラバラに考えなきゃ。

   *

  生きにくい世の中ってのはわかるけれど、
  死ににくい世の中でもあるんですよね

   *

  死刑囚には
  最後にタバコをすすめるのですが、
  肺癌になるからと断って
  刑場に向かった男がいましたよ。

   *

  面白い話はいくらでもある。
  でも、面白い話し方は滅多にない。

   *

  子供 叱るな
  来た道だもの
  年寄 笑うな
  行く道だもの

【出典】永六輔『無名人名語録』(講談社、1987、後に講談社文庫)、『普通人名語録』(講談社、1988、後に講談社文庫)、『一般人名語録』(講談社、1990、後に講談社文庫)、『新・無名人名語録 -死ぬまでボケない智恵-』(飛鳥新社、2000)
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