たまには、ブログっぽいことを書きます。
■引用ここから・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<脅迫文>授業で作成・教諭と校長、児童に謝罪/毎日新聞10月1日(金)15時20分配信
山梨県韮崎市立小学校の男性教諭(48)が
身代金を要求する内容の脅迫文を授業で作らせた問題で、
教諭と校長は30日午前、クラスの児童に謝罪した。
市教委などによると、脅迫文作りは男性教諭が考案。
27日午後、5年生の道徳の授業の際に5、6人で一緒に新聞から文字を切り抜き、
脅迫状を作らせた。
グループ作業を学ぶのが目的だったが、
校長は「道徳教材としては文の内容が不適切」と判断し、教諭を口頭注視とした。
教諭は30日午前、クラスの児童に
「楽しさを求めた結果、適切な判断ができなかった。申し訳ない」と謝罪。
保護者には10月1日夜に経緯を説明する。
児童が興味を持って学べる教材づくりは
教師の腕の見せどころだが
行きすぎた授業内容に現場の教諭から手厳しい声が相次いだ。
甲府市立小の40代の男性教諭は
「子供が興味を持つため、教材を工夫することは必要」としたうえで
「バランス感覚が必要で、何をやってもいいわけではない。
『命はないと思え』などの表現はふさわしくない」と指摘。
甲斐市立中の50代の男性教諭も
「友達との協力が目的ならば脅迫文である必要はない」と首をかしげた。
【小林悠太】
児童に作らせた脅迫文
9月27日午後3時、(教諭の実名)の身柄を悪の組織が確保した。
返してほしければ7時、ちびっ子広場に8000円もってこい。
クラスの中で1番大きな男子に持たせること。
1秒でも遅れると命はないものと思え
■引用ここまで・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『脅迫状ゲーム』は知る限り二十年前から存在した。
教員が個人で考えたはずはなく、レクリエーション方法の書籍にも載っていたのではないか。
なぜ、「脅迫」という言葉が入るか。
それは、推理小説などの書籍、あるいは<グリコ・森永事件>のように実際に起こった事件の中で、筆跡や身元を隠すために、犯人が新聞の切抜きで「脅迫状」を作ったことによると推測できる。
僕も『脅迫状ゲーム』として習った。
1 6人ほどのグループを作る。
2 グループに新聞紙一枚・のり・貼りつける台紙一枚を配る。
3 教員が例文を黒板に書く。
4 合図でグループが手分けして新聞紙から文字を探す。
5 台紙に貼りつけて、例文と同じ文を作る。
6 できたグループから、黒板に磁石で貼るなどして、早さを競う。
僕が具体的に方法を知っているということは、全国のかなり多くの教員が知っているということだ。
僕はたまたま一度も行なったことがない。
今回、報道されたような問題を懸念したからではなく、何となくうまくやるイメージが浮かばなかったからだ。
偶然であってやっていたかもしれない。
現在でも、全国を探せば『脅迫状ゲーム』を行なっている学級はあるのではないか。
また、『ゲーム方法の書籍』を探せば『脅迫状ゲーム』のような名称で、現在も方法が紹介されているかもしれない。
そういう書籍が、今も販売されている可能性があるということだ。
ゲーム自体は生徒が「協力しないとできない」し、「集中する」し、「かなり楽しい」雰囲気になる。
伝え聞きだが、間違いない。
ルールと学級に対する影響は良い、とはっきり言える。
今回の報道については六つの問題点がある。
一つ目に、
「責任が当該の担任だけにある」
とされている点だ。
その担任は当然誰かから方法を教わったはずだ。
教えた教員も同じゲームを何度も行なっただろう。
『50代の男性教諭も
「友達との協力が目的ならば脅迫文である必要はない」
と首をかしげた。』
という表現から、『脅迫状ゲーム』そのものが問題だと読み取る読者も出るだろう。
特に、教員以外の読者ならばだ。
もしそうならば『書籍』にも『教えた別の教員』にも責任はあることになる。
二つ目に、
「まるで当該の担任だけが『脅迫状ゲーム』を行なっている」
ように受けとられる点だ。
日本にこんなことをしている教員がいるのか、と教員以外は驚くような書きぶりである。
特殊な例だ、という書きぶりである。
そんなことはない。
レクリエーションを勉強した教員の多くが、このゲームを行なったはずだ。
一昨日までは、全国のどこかの教室で、このゲームが行なわれていたと推測できる。
昨日からは、誰もやらなくなっただろう。
<40代の男性教諭は「子供が興味を持つため、教材を工夫することは必要」>
と言ったのが事実なら、まるで当該の担任が創作した教材だというようだ。
そうではないだろう。
三つ目に、
「問題点のすりかえが行なわれている」
点だ。
今回の問題は、当該の担任の「例文」にある。
これはどう考えても非常識だ。
『脅迫状ゲーム』の例文は、どんなものでも成り立つ。
「今日は寒いです。」
「明日は遠足なので楽しみだ。」
「僕はとても女の子にモテルのでちょっと困るときもあります。」
どれでもよい。
最初は、短文から始めて、二回戦、三回戦と少し長くして難易度を上げるとよい。
ユーモアのある楽しい文だと、生徒も楽しめる。
誰も嫌な気持ちにならない例文が必要だ。
『脅迫』という言葉が問題だ、という方もいるかもしれない。
だが、これは繰り返すが、当該の担任の責任ではない。
何十年か前に、誰かが作ったのだ。
四つ目に、
「また、教員が問題起こしたのかよ」
という”感じ”が読み取れることだ。
誤解を恐れずに言えば、教員・警官・医者はマスコミのいい餌だ。
三者を批判すれば世論がついてくる。
五つ目に、
「私は知りません、関係ありませんよ」
という”雰囲気”が管理職と同僚の言動から匂うことだ。
先の『五十代男性教諭』の言葉は丸呑みできない。
マスコミは自己解釈して、言葉を書き換えることがある。
もし、五十代男性教諭がそのまま言ったのなら、冷たい。
または、不勉強だ。
<私も『脅迫状ゲーム』は以前から知っており、ゲームには良い点もある。当該の担任もゲームの良い点を活かして授業に取り入れたのだろう。だが、今回は例文が非常に不適切だ>
と言ってほしい。
ゲーム自体を知らなかったなら不勉強だということだ。
報道文の、
<「友達との協力が目的ならば脅迫文である必要はない」と首をかしげた>
とは受ける印象が大きく異なる。
報道文は、
”脅迫文の授業をする必要はない”
”脅迫状ゲームをする必要はない”
と読み取ることもできる。
この点は、マスコミ、五十代男性教諭どちらがどんな意図を持っていたか読者にはわからない。
<行きすぎた授業内容に現場の教諭から手厳しい声が相次いだ>
のが事実なら、どうも釈然としない。
校長の説明も僕には不十分と感じられる。
六つ目に、
「<脅迫文>授業」
とは何だ。
このままだと
「脅迫するための文章を作らせる授業」
とも読むことができる。
『脅迫状ゲーム』
という名称とはえらい違いだ。
当該の担任が生徒に、
「<脅迫文>授業、をします」
と言ったとは考えにくい。
だが、マスコミの報道文は、そう読み取りやすいように書かれている。
悪意さえ感じる。
世論に媚びたと言いたい。
別に、毎日新聞に言っているのではない。マスコミ全体にだ。
まあ、確かに『脅迫』という言葉が入っている、ゲームにしろ授業にしろ、この名称が長く続いたのは不適切だった。
だが、しつこいがこの言葉を作ったのは当該の担任ではない。
とにかく、学校がマスコミに対すると非常に弱腰になるしかない時代なのも確かだ。