円の外へ

20070121開設/中学高校国語授業指導案/中学校学級経営案/発達症対応/生活指導/行事委員会指導

香港家賃は20万円

2018-08-14 18:52:19 | 2018年度雑記
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2018-8-14
先日、香港へ行った。
青空市場の上にそびえる、見た目ぼろぼろのレンタルマンションの前でツアーガイドに尋ねた。
「9時から6時、9時から6時、残業あり。
 食事は全部外食で、家賃は高くて共働きですよね。
 何を、楽しみにしているんですか?」
「うーん。なんだろう。旅行ね。
 お金ためて休み取って旅行行く。
 ・・・意味がない」

耐えられず爆笑した。
うーん、と彼は困って考えたからね。
暇なく働いて、生きてる意味って何だろう、とそのガイド氏はつぶやいたのだ。
でも、スマートな彼は何の苦渋も見せない。
涼しい顔で毎日働き、共働きの家賃3万円の公団レンタルに帰るのだ。
青空市場の上で崩れそうな建物は、日本円で家賃「20万円」だ。

◆1 家賃は20万円
 地震がない香港のレンタル住宅は、日本の電信柱を10本つなげたほど細く長い。
 30階、40階は当たり前だ。
 各階が2LDKの面積一つとか二つ分だけで、40階まで伸びるビルも多い。
 これを現地の人は「爪楊枝・つまようじ」と呼ぶ。
 その2LDKの家賃が日本円で、20万から25万円だ。
 土地の狭い香港で、最も高くつくのが「家賃」だ。 
 それを、どうやって払うのか。
 夫婦共働きで、20万円ずつ稼いで一人分は家賃で消える。

 人口は700万人で、その7割は「公団レンタル」に住む。
 「公団レンタル」の家賃は3万から5万円だが、今申し込んでいつ住めるのか。
 5年後か10年後か誰にもわからない。
 どの30、40階建て住宅も家賃は20万から25万円だ。
 山の見晴らしのいいレンタルには「200万円」払うのだという。
 家を買う人はまずいないそうである。

 香港の大金持ちは何の仕事かとガイドに訊いた。
 「ITと株と不動産です」

◆2 香港の人はすべて外食
 香港の食事はすべて「外食」だ。
 家に帰って炊事などしない。
 引退した高齢者が、市場で買い出して家で食事をするのは少ない例外である。
 思うに、況してやだ。(ましてや、ってこう書くのか。変換して知った…恥)
 女性が食事・洗濯・掃除するって、決まっているなどあり得ない。
 日本は、特別に、変わった国なのだ。
 
◆3 ワンタン麺に感動
 僕が自分のことで、本当に信用する力は少ない。
 その一つが「味覚」だ。
 タバコは吸ったことがなく、外食と酒に充分カネをかけ、子供のときの食事が正しかったからだ。
 アラカンを迎えて、滅多に過去の記憶以上の味に出会うことはなくなった。
 だが。しかし。まさか。

 一つ目は
 【ホテル朝食バイキング】

 豆乳。お粥とトッピングの岩海苔のようなもの。豆スープ。
 あとは何だか覚えていない。無念っ。
 ただ過去数十年で食べた朝食で最もおいしかった。
 体の中がきれいに入れ替わるような、上品に澄んだ食事だった。
 メモには「★ BEST WONDERFUL◎」と書いてある。
 「明日は、別のを食べ尽くしましょう」
 と連れのかたに言ったが、残念ながら翌朝はバスでワンタン麺を食べに行くのであった。
 一度だけなら、吐いても全品食べ尽くすべきだったのだ。糞っ。

 二つ目は
 【ワンタン麺とマンゴープリン】

 有名な店でワンタン麺の朝食です、とスマートガイドが僕たちをバスに乗せた。
 「この店、おいしいわけ。スープです。エビの頭たくさんでとったスープ。
  ひと口飲む。麺食べる。スープ全部飲みます、お客さんは」
 スマートガイドは言った。
 中国のワンタン麺か、楽しみだなあ、ただそれだけだった。
 もう、午前9時近くで、地下一階の店内は空いていた。
 照明が暗めで、朝なのにすごく暑い。
 冷房がほとんどきいていない。
 僕たちが席についたとたん、ドンドンドンと音を立てて目の前にドンブリが置かれた。
 早すぎ。
 これだよ、中国のサービスは。
 少し小さめなドンブリに、とても細いちぢれ麺の山がこんもりと盛ってある。
 ワンタンはどこにもない。
 スープはどこだ。
 レンゲで下のスープを探り、すくい、くちびるに運んで舌の上にそそぐ。
 うーーーん。
 ああ……これは何だろう。
 スープだけを5回、6回と口に運ぶ。
 ひょろっと小エビのカタマリが見える。
 小エビが2、3匹ギュギュッと半透明の膜で固まっている。
 日本のビロローンボヨボヨではない。
 ヒレのないコロッとした、丸いカタマリだ。
 ハシでつまんで食べる。
 エビがコリコリだ。エビを包む皮に無駄がない。エビと皮から旨味がほとばしる。一瞬だ。
 麺の下から次々エビワンタンが出てくる。
 いやぁ……何だろうこれは。
 麺の硬い茹で具合は抜群だ。
 お茶碗を、ふた回り大きくしたくらいのワンタン麺は、息をつく間もなくなくなった。
 僕は、食べ終わるまで、ひと言もしゃべらず、一度も顔を上げなかった。
 本物だ。
 日本で一度も出会ったことのない味だ。
 そして、これからも二度と会わないだろう。
 食べ終わると、代わりにドンッとマンゴープリンの椀が置かれた。
 これも、ひと言もしゃべらずに食べた。
 本物だ。
 僕は珍しく外で看板の写真を撮った。

 三つ目は
 【三晩目のオプション香港料理】

 夜景見学とセットだから、料理は五千円くらいだろうか。
 名前は、フカヒレスープ・アワビ・ツバメの巣スープのコース、だった。
 スープは具がどこにあるのかわからなかったけど、とてもおいしい。
 アワビは小さなトコブシだったけど、ものすごく柔らかくて味がしみている。
 大皿の「ナスのあんかけ」が、記憶に残る絶品だった。
 中指ほどのナスが、ひき肉入のあんかけになっている。
 ナスがあまりに歯ごたえがよくて、何かのキノコかと思った。
 あんかけがものすごくうまい。
 味付けが押し込んである。
 どんな料理も自信がないとここまで押し込めない。
 紹興酒を一人で一本飲んだが、これが珍しいのか驚かれた。
 スマートガイドに、ビールグラスで飲むと言ったら「合わないから」と彼は断わる。
 呆然としていたら「これで? 飲む?」と、やっとグラスをくれた。
 僕より年配ばかりの他の7人は、ボトルを分け合ったりビールを飲んだりした。
 この5年ものの紹興酒がまたよかった。
 外飲みで三千円は安物だが、色、香り、コクともすぐれて、日本でどこにあるのだろう。
 全部タイ米のチャーハンも、細麺のヤキソバも抜群だった。

香港は暑くて、湿度がうんざりするほど高い。
日本の2018年がこんなに高温でも、香港の蒸し暑さにはかなわない。
本物のすぐれた料理に感動した香港旅行だった。(2,527字)
コメント (2)
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夏休み部活ありません新潟・加茂の中学

2018-08-13 01:25:21 | 世界に部活は無い
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2018-8-13
夏休み部活ありません新潟・加茂の中学20180802
新潟・加茂の中学、負担軽減目的

……こういう記事はたいていすぐ消える。

部活と日本スポーツ強弱無関係
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死の受容プロセス5段階(引用)

2018-08-01 15:41:59 | 2018年度雑記
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2018-8-1
『死ぬ瞬間―死とその過程について(中公文庫)』/キューブラー・ロス,エリザベス
「死の受容」プロセス(5段階モデル)
第1段階:否認と孤立(denial & isolation)
自らの命が危機にあり、余命があとわずかである事実に衝撃を受け、
それを頭では理解しようとするが、感情的にその事実を否認(逃避)している段階。
「なにかの間違いだ」
というような反論をするものの、それが否定しきれない事実であることは知っている。
周囲は、この事実にもとづいて考えを進めているため、
そうした周囲から距離を取り、孤立することになる。

第2段階:怒り(anger)
自分が死ぬという事実は認識できた。
しかし
「どうして悪いことをしていない自分がこんなことになるのか」
「もっと悪いことをしている人間がいるじゃないか」

というような怒りにとらわれる段階。
ケースによっては、看護師などに対して
「あなたはいいね、まだまだ生きられて」
といった皮肉のような発言をすることもある。
根底にはやはり「なぜ、自分が」という、死に選ばれたことへの強い反発がある。

第3段階:取り引き(bargaining)
信仰心がなくても、神や仏にすがり、死を遅らせてほしいと願う段階。
死ぬことはわかったが、もう少しまってほしい。
財産を寄付したり、これまでの行為も改めるといった「取り引き」をしようとする。
なんとか、死を回避することができないか、模索する。
はじめは
「死を遠ざけてほしい」という願いが
「◯◯をするので、あと少しだけ」という具合に、
取り引きの条件が自分に不都合なほうに変化することもある。

第4段階:抑うつ(depression)
「ああ、これだけ頼んでもダメか」
「神も仏もないのか」

というように、自分なりに神や仏に祈っても、死の回避ができないことを悟る段階。
悲観と絶望に打ちひしがれ、憂うつな気分になる(正確には、抑うつと悲観は異なる概念である)。
頭で理解していた死が、感情的にも理解できるようになる。
神や仏の否定になるケースもあり、虚無感にとらわれることもある。

第5段階:受容(acceptance)
それまでは、死を拒絶し、なんとか回避しようとしていたが、
生命が死んでいくことは自然なことだという気持ちになる。
個人差もあるが、それぞれに生命観や宇宙観のようなものを形成し、
自分を、その中の一部として位置づけることもある。
自分の人生の終わりを、静かにみつめることができるようになり、心に平穏が訪れる。

「死の受容」プロセス・・・だいぶ前に読んだ気がする。
今は我が身のこととして理解できる。
僕は毎日「受容」している。
重病でもないのに嘘だって? 
証明はできない。
でも、どう自分に問うても、第四段階のどれにもあてはまらない。
毎朝、今日は帰ってこないかもしれない。それで良い。行ってきま~す、と部屋にひと言行って出勤する。
そして、疲れて健康で帰ってくる。
するとこう思う。
「毎日幸せ。幸せいっぱいだ」
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