円の外へ

20070121開設/中学高校国語授業指導案/中学校学級経営案/発達症対応/生活指導/行事委員会指導

映画2011best12&all

2011-06-06 23:02:57 | blog映画Diving
2011/12/31up全ページ目次
映画2011best12&all
作成日20111231
あえて言うが映画不作の年だった。
製作者は3Dにうつつを抜かした。
映画の本質は言葉と筋書きにあることを世界中が知ったはずだ。
映画ど素人なのでこれ以上はやめときます。

映画2011best3&all
第1位『キック・アス』
 (2010年公開作だが僕が観たのは2011年だから問題なし。
  それに去年だろうが一昨年だろうがダントツ優勝~)

第2位『ブラック・スワン』
 (『レオン』から立派に育ったナタリー・ポートマンはイスラエル生まれだった。
  彼女の凛々しさとストーリーの発想に高評価)

第3位『英国王のスピーチ』
 (「言葉」を使うことの難しさ、大切さを伝えた傑作)

第4位『ハンナ』
 (ひたすらこういうのが好き)

第5位『サラの鍵』
 (ラストにやられた。あと、こんなことがあったことにびっくり)

第6位『塔の上のラプンツェル・2D』 (3Dはひどかった)
第7位『トゥルー・グリット』 (これが2位でもいい)
第8位『ミッション・インポッシブル・ゴーストプロトコル』 (シリーズ最高)
第9位『完全なる報復』 (楽しめた)
第10位『冷たい熱帯魚』 (役者たちの演技力が凄い)
第11位『飯と乙女』 (邦画の可能性を示した秀作)
第12位『リアル・スティール』 (最後が惜しい)

<以下今年映画館で観た順に>
◎等の印はHYOKOの好み
 観るものがなくて二回以上が多い。これは本数に加えず*回目と記す
1○ミック・マック
2◎◎◎◎キック・アス
 キック・アス(2回目)
 キック・アス(3回目)
3××ソーシャル・ネットワーク
4×白夜行
5○△グリーン・ホーネット
6○○完全なる報復
7××KG
 キック・アス(4回目)
8○太平洋の奇跡
9○ザ・タウン
10×ウォール・ストリート
11△毎日かあさん
12○恋とニュースの作り方
13××ガンツ
14○○英国王のスピーチ
15×××僕と妻の1776のナントカ
16×ヒア・アフター
17×相棒
18△モンガに散る
19×ツーリスト

■3月11日14:46■

20◎◎塔の上のラプンツェル・2D
21○ランナウェイズ
22◎◎トゥルー・グリット
23×塔の上のラプンツェル・3D
24×SP革命篇
25×ザ・ファイター
26○○冷たい熱帯魚
27△SOMEWHERE
28×わたしを離さないで
 トゥルー・グリット(2回目)
29○愛する人
30△デザートフラワー
31×八日目の蝉
32△阪急電車15分
33△抱きたい関係
34◎◎ブラック・スワン
35△×落語物語
36△×Xmen
37△SUPER8・2D
38×××コクリコ坂
39△ハリー・ポッター
40×××トランスフォーマー
41△モールス
42◎復讐捜査線
 復讐捜査線(2回目)
 復讐捜査線(3回目)
43××うさぎドロップ
44○○飯と乙女
45◎◎ハンナ
46×神様のカルテ
 ハンナ(2回目)
47×ピンクスバル
48×日輪の遺産
49×ロサンゼルス決戦
50○ブルー・バレンタイン
51△エンディング・ノート
52○△素敵な金縛り
53◎リアル・スティール
54◎サラの鍵・・・(Google 日本語入力すげー。ここまでほとんど語頭だけで変換可)
55◎ミッション・インポッシブル・ゴーストプロトコル(シリーズ最高)
56×××アントキノイノチ
57×永遠の僕たち
58△×恋の罪

(2011年・以上58本・のべ65本)
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引用文:努力をほめろ

2011-06-06 23:02:41 | 勝手に授業研究
2011/10/18up全ページ目次
引用文:努力をほめろ
作成日20111018
「より速く適切に学べる人」その理由2011年10月18日(火)12:17
http://news.goo.ne.jp/article/wired/world/wired-1594.html
(後半抄)
ドゥエック氏の最もよく知られた研究は、クローディア・ミューラーとともに、ニューヨーク市内の12の学校で行ったものだ。
研究では、5年生400人あまりに、言語を用いない比較的やさしいパズルを課題として与えた。

テスト終了後、研究者たちは生徒たちに点数を伝え、簡潔な言葉でほめた。
半分の生徒には彼らの知性をほめた
(「あなたは頭がいいんだね」)
残りの半分には彼らの努力をほめた
(「一生懸命やったね」)


ドゥエック氏は最初、このほめ方の違いが大きな違いを生み出すとは考えていなかった。
しょせん言葉にすぎないからだ。

しかし実験の結果、5年生に与えられたほめ言葉に劇的な影響力があることがわかった。
まずは、最初の生徒たちにまた別のテストを2種類与え、
生徒たち自身にどちらか好きなほうを選ばせた。

ひとつは最初のものより難しいパズルだが、やればとても勉強になると説明された。
もうひとつは、最初のものと同様の簡単なテストだ。

努力をほめられた子どもたちは、90%近くが、難しいほうのパズルを選択した。
一方、賢さをほめられた子どもたちは、ほとんどが簡単なほうのテストを選んだ。


ドゥエック氏によると、
知性をほめられた子どもは、
自分を賢く「見せる」ことに気持ちを向けるようになり、
間違いをおかすリスクをとれなくなるのだと説明している。


次に、もっと難度の高いテストが与えられた(5年生に対して8年生向けのテストが与えられた)。
賢さをほめられた生徒たちはすぐ挫折してしまったが、
努力をほめられた生徒たちは、このテストに熱心に取り組んだ。


そして、このテストを受けた後で、両群の生徒たちは、
成績が自分より低かった生徒と高かった生徒のうち、
どちらかのテスト用紙を見る選択肢を与えられた。

賢さをほめられた生徒たちは、
ほぼ全員が、自分よりテストの出来が悪かった生徒と自分を比較することで、
自尊心を強化するほうを選んだ。

これに対し、努力をほめられた生徒たちは、
自分より成績のよかったテストを見るほうを選ぶ確率が高かった。
彼らは失敗を理解し、失敗から学び、よりよい方法を編み出したいと思ったのだ。


最後に、最初のテストと同様の難易度であるテストが行われた。
努力をほめられた生徒たちは、テスト結果が有意に上昇し、平均スコアが30%伸びた。
彼らは、たとえ最初は失敗しても挑戦することを望んだので、より高い成績を得たのだ。


この結果をさらに際立たせるのが、
最初にランダムに「賢い」グループとされた生徒たちのスコアだ。
こちらは前回から20%近くも低下した。
失敗の経験でやる気をくじかれた「賢い」生徒たちは、実際に退歩してしまったのだ。


生徒の「賢さ」をほめることの問題は、教育というものの心理学的なリアリティを誤った形で示すことにある。
それは、「間違いから学ぶ」という最も有益な学習活動を避けさせてしまう。

間違いをおかすことで生じる不愉快な反応を経験しない限り、
われわれの脳が既存のモデルを修正することはない。
いつまでも同じ間違いをおかし、
自信を傷つけないために、自らを成長させる機会を逃し続けるのだ。

サミュエル・ベケットは適切にもこう言っていた。
「試してみたら失敗した。それがどうしたというのだ。
もう一度試せ。
もう一度失敗し、よりよく失敗するのだ」


TEXT BY Jonah LehrerTRANSLATION BY ガリレオ -高橋朋子/合原弘子
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集団生活に慣れるための義務教育は終わる時代

2011-06-06 23:02:17 | blog映画Diving
2011/9/16up全ページ目次
集団生活に慣れるための義務教育は終わる時代
作成日20110916
以下に引用する、
「社内失業者という名の600万人の貴族」
http://freedom-7.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-b961.html
の中に、
「「集団生活に慣れるために義務教育がある」という向きもあるが、
今現在の日本社会をつぶさに観察すれば、
そういった集団主義というものが時代遅れになってきつつあることは
誰の目にも明白であると思う。」

とあるが、日本の集団主義を育て支えてきたのが「小中学校教育」であることは間違いない。
特に
「強力な集団主義」
「格上の人間の言うとおりに動く」
「他人と違うことをしてはならない」
ということを教えこむのが、部活動だ。
教育関係ブログランキングサイトや、中学校教育を標榜するブログの多くは、部活動報告だ。
部活動は「中学校教育の本分」でない。
「部活動こそ教育」などと日本以外の国で言ったら、どんな顔をされるだろう。
もっとも、部活動という「言語・概念」が存在しないので顔も何もない。
言っても何も変える力は僕にないので遠慮してきたが、遺り時間も少なくなったので気にしない。

一方で小学校授業は反動なのか、
「教え込んではならない。支援をせよ」
などと訳のわからない授業が進んでいるらしい。
「この文章で何を問題にしましょうか」
「はい。なになにです」
「では、みんなで考えましょう」
のように進むらしいが見たことがない。見る気もない。
「発問」も「指示」もしないのだ。
「教師が用意した問いを、一方的に発問するのは生徒を育てない」
らしい。
くどいが野口芳宏先生が述べる通り「教育は価値ある強制の連続」だ。
「価値ある強制」と「集団主義教育」はどこも重ならない別のものだ。

▼引用ここから▼~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
2011年9月14日 (水)
【生きた経済ブログ】 http://freedom-7.cocolog-nifty.com/blog/
 現在のアメリカの失業率が9%台という高い位置にあることは
よく知られた話だが、
日本の完全失業率は4%台で推移している。
 「失業率」というのは、元から働く意思の無い人間まで含めた比率のことであり、
「完全失業率」というのは働く意思を持った人間のみの比率であるので、
通常は「完全失業率」よりも「失業率」の方が悪く(高く)なる。
失業率で言えば、日本も5%をゆうに超えているはずである。
 一説ではアメリカの完全失業率は実質15%以上とも言われているので、
どこまでが真実なのか判らないが、公式な発表である数字を信じて話を進めよう。
 日本の場合、失業率ではなく、完全失業率が4%台なのだが、
数字の上ではアメリカよりもかなり低い位置にあると言える。
実際に、日本の完全失業率は先進国の中でも低い位置にある(ことになっている)。
 日本の労働者人口は6200万人(そのうち400万人が公務員)と言われており、
失業者は300万人程度なので、300÷6200で4%台という数字が出てくるわけだが、
日本には失業者の他に「社内失業者」と言われる人が
推定で600万人もいると言われている。

 ということは、300万人+600万人で、
単純に見積もっても900万人の労働者が仕事をしていない
ということになる。社内失業者の中に公務員の一部がカウントされているのかどうか定かではないが、
もしカウントされていないとなると、
900万人どころか、1100万人程度にまで膨れ上がるのではないかと思われる。
 仮にその中間をとって1000万人だとしても、
6200万人中、1000万人が働いていないということは、
実質的な完全失業率は16%を超えていることになる。
 この「社内失業者」と言われる人々は、収入が無いわけではなく、
まともに(?)給料をもらっている人々である。
このことから何が言えるのかというと、トータルで考えれば、
労働者5人で1人の失業者(失業者と社内失業者)の面倒をみているということである。
換言すれば、実際に労働している人間は
2割分の労働価値(=給料)を気が付かないうちに天引きされているということになるわけだ。
 既に定年で引退した人間を現役の労働者達で面倒をみる制度が賦課制の年金制度だが、
これとは別に現役の労働者内でも賦課制の年金制度が別に存在しているというのが
日本の労働市場の隠れた実態である。
 こんな身も蓋もないことを書くと、「仕事が無いのだから仕方がないではないか!」
というような人が出てくるかもしれない。
しかし、この場合、「弱者がどうのこうの…」と言うのは少し筋違いであると思う。
 会社内で自分の仕事が無くて、
その会社をクビになるか自己退職して仕事を探しているという人であれば、
確かに弱者だと言えるだろうが、
仕事をほとんどせずに会社に居座って給料をもらっているというのは、どう考えても弱者とは言えない。
仕事をせずに収入を得ている人間のことを、一般的には「貴族」と呼ぶ。
「貴族」の立場にある人間が「弱者」を名乗るのは明らかに矛盾している。
 少し前に話題になった派遣切り問題や、大学生の内定率の低下問題のバックグラウンドには、
600万人にも及ぶ社内失業者の存在があることは間違いないと思われる。
 社内失業者にも言い分があるかもしれないが、いかなる事情があるにせよ、
働かずに高給を得ている労働者が数多く存在することは問題である。
 このような大きな問題を取り上げずに、表面的な失業率や就職率をいくら報道したところで、虚しいだけである。
この問題を放ったらかしにしているせいで、
新卒者が本来就くべき仕事に就けないというケースも多々あるのではないかと思う。
 「社内失業者」が増加する背景には、根本的に仕事が足りないという表向きの理由と、
様々な事情で会社を辞めることができない(または辞めさせることができない)
という後ろめたい日本のお家事情も関係している。
一度上がった給料は維持したいという欲とプライドを併せ持ち、
仕事が無くても会社にしがみついて生きるしかないという悲しい性

を抱えた「貴族」は大勢いると思われる。
 こういった貴族(社内失業者)を減少させる(クビにするという意味ではない)ためには、
高度成長時代に築いた経済成長が前提の社会システムを全て見直し、
絶対的な仕事量を増加させるべく、新たな産業を創出していくという姿勢が重要であり、
そのためには現在の義務教育体制自体も根本的に改めなければならない。
 教育というのは、ある意味で子供という人材に対する投資であり、
将来的に自立し富を生み出すことのできる人間を育てるための先行投資でもある。
将来的に、「国に面倒をみてもらえばいい」というような人間を育てるのが目的であるなら、
国民の税金を利用した義務教育などは必要ないということになってしまう。

  「集団生活に慣れるために義務教育がある」という向きもあるが、
今現在の日本社会をつぶさに観察すれば、
そういった集団主義というものが時代遅れになってきつつあることは
誰の目にも明白であると思う。

それが良いことなのか悪いことなのかは別にして、
時代が求めているのは
“個性の無い大集団”
ではなく
“個性を持った個人”
である。 

 「社内失業者」というものも、元をただせば
“個性の無い大集団”
を良しとする社会から生まれたものであると言える。
集団の中で生きることに慣れ、そこから抜け出すことを悪とする社会風土が招いた悲劇こそが
「社内失業者」の増加だと言えるのかもしれない。
▼引用ここまで▼~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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日本人大学生はなぜ議論ができないかbyカール・S

2011-06-06 23:02:16 | blog映画Diving
2011/9/15up全ページ目次
日本人大学生はなぜ議論ができないかbyカール・シュトゥッベ
作成日20110915
以下の引用文はほぼすべて正しい。
だが、ほとんどが日本人全員四十年以上前から知っていることばかりで新鮮味はない。
ただ、一つだけちょっとした誤解がある。
引用文に
「既に小学生の頃から、
素直に自分より格上の人の教えを疑わず受け入れる様、
教育されているのです。」
とあるが、これは少し間違っている。
「格上の人間の言うことは、疑っても受け入れる様、教育される」
というのが更に正しい表現だ。
疑わないほど日本の児童生徒も愚かではない。
また、小学生の頃からではなく、
「主に集中的に中学校在学中ほぼ全員部活道入部によって、格上を受け入れる様教育される。
大勢が入部するのは、部活道三年間在籍が、高校入試の成績に関係するからであり、
部活道では「それなら(どれなら?)試合に出さない」等受け入れ教育があるからだ。
そのため一部だが部活道顧問以外の言うことを聞かない生徒が出る事態も発生する。
かつ高校入試で高校担当者が最も客観的に重要視するのが部活道の試合記録だからだ。
その原因は現在、公立中学校は絶対評価を採用しており、
高校では中学校の成績に大きな信頼を置くのが困難な点にある。」
と、こう表現すると更にわかりやすくなる。
単なる推測だがこういった教育が以下の、
「主体性を持ったり、自分の意見を言ったりしない大学生を作る」
ことにつながるのかもしれないが、実証された事実は、
誰も知らない。

訂正:
部活動が部活道と変換されてしまったことを訂正いたします。

◆引用ここから◆**************************
2011年09月13日18:24
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/3935540.html
カール・シュトゥッベ(Karl Stubbe)さん・ドイツ
「早稲田大学で勉強してるときには、自分の意見を言う必要がない」
「学生に『じゃあ、あなたの意見を聞かせてください』と尋ねても、日本人は答えに困ってしまう」。
日本へ留学した日本語学科の学生が語る:
日本とは、電車に押し込められたり、
大学生がルイ・ヴィトンのカバンを愛用してる国です。
梅雨時の東京はものすごく暑くて蒸しています。
北海道では6ヶ月も雪に囲まれて場所によってはスキーで登校。
京都では教師がお坊さん。
何処へ行けば良いのだ・・・?
学生に人気もあり、大学は大繁盛。
受験をするだけでも100ユーロは払わないといけません。
日本の高校生は、
同時に多くの大学の試験を受けるので入学前から親には高くついてしまうのです。
予備校に行った場合はさらに何十万円と払う必要があるのです。
親が頑張ってる理由は子供の将来の職業安定の為です。
日本では教わった事よりもどの大学の出なのかで、
職につけるかどうか決まるのです。

昼休み後の講義室:
講義が始まって15分も経っていないのに出席をとったら、
半分くらいの生徒は早々後ろの出口から早退。
また15分もすると所々から居眠りしている生徒の静かないびきが聞こえてきます。
エリート大学がこんな物でいいのでしょうか?
「報道機関と言うものは何んだと思いますか?」
と、軽い気持ちで尋ねた教授。
何故かどんなに待っても返事が無いので、さすがの先生も観念してしまいます。
日本人が数学を得意とすることは有名です。
しかし、主体性や、自分の意見を持ったりする事などは教わっていない様です。

既に小学生の頃から、
素直に自分より格上の人の教えを疑わず受け入れる様、
教育されているのです。

日本が好きな僕でも、さすがにドイツの大学がこの様に、
名前ばかりのエリート大学とかにだけはならないでいて欲しいです。
日本では、明るい未来の為に、山ほどの出費が必要とされています。
それを毎年、多くの親が思い知らされるのであります。
翻訳元:
http://www.spiegel.de/unispiegel/studium/0,1518,567401,00.html
◆引用ここまで◆**************************
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日本で国が出す教育支出OECD最下位

2011-06-06 23:02:15 | blog映画Diving
2011/9/14up全ページ目次
日本で国が出す教育支出OECD最下位
作成日20110914
日本は教育に金をかけない。
明治維新も戦後の復興もすぐれた教育者が出て、育った若者が動いてこそ成った。
教育の根本、教師の本業は「授業」だ。
学習指導要領にもほとんどは授業のことが書いてあることからたぶん間違いない。
たぶん。

■引用ここから+++++++++++++++++++++++++++++++++++++
[日本の教育復興を支援OECDが異例の声明]2011年9月13日(火)19:18 YOMIURI ONLINE
経済協力開発機構(OECD)は13日、加盟34か国の教育費などを分析した結果を発表した。
2008年の国内総生産(GDP)のうち、

日本では教育に対する国や自治体などの支出が占める割合は3・3%。
OECD平均の5・0%を下回り、データのある31か国中最下位だった。
また、日本では、子供1人にかかる大学教育費のうち、
国や自治体ではなく、家庭が負担している割合は66・7%で、
OECD平均の31・1%を大きく上回った。
日本では教育に対する国や自治体の支出が少ないため、
家庭が多くの教育費を負担せざるを得ない
実態が浮かび上がった。
また、OECDの日本に関する報告書には「東日本大震災の後、教育の復興に取り組んでいる日本を支援していく」
という声明が掲載された。報告書に声明が掲載されるのは異例という。

■引用ここまで+++++++++++++++++++++++++++++++++++++

それでいて、
中学校は教師が仕事時間の四分の一程(3時間?)部活で忙しい

一日の四分の一ということは、教員三十年間の四分の一、
一日11時間労働として週5日勤務と仮定し月を4週とすれば一か月「220時間労働」×1/4月間55時間部活
年間少なめに生徒が登校するのが10か月としても、55×10=年間550時間部活
三十年間で、550×30=人生16500時間部活
大変な「努力」だ。
これこそ、足を向けて寝られない、と言う。

そういう人も「中には」いるということだ。
それ以上、一日の三分の一たっぷり部活をしている人もいるかもしれない。
休日なしで部活をする人もいるからだ。

僕が約16500時間「教育書を読んだら」何冊読めるだろう。
僕が約16500時間「研究授業の教材研究をしたら」何回、他の人に授業批評をして頂けるだろう。
後悔しても仕方ないから、雇っていただいている間はすべて授業のことだけ考えることにした。

16500時間の違いは「授業方法」にどう表れるのだろう。
もし、国が金を出してどこかの国のように「20人学級」制度にし「教員を増やしたら」生徒の学力はどう変わるのだろう。
誰も知らない。
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