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2022-04-12
中学1年α組 少年の日の思い出どちら家のの入り口か 2021年12月14日
【実験として、このクラスだけクライマックスでなく「入り口」で討論させた。
この論題のほうが、表現を元に論じるに優れているかもしれない】
(教師の添削は一字もない)(入り口討論直後の作文)
【当然だが、決して宿題にしない。授業時間内だけの作業で提出】
1 「エーミールの家」だ。理由は2つある。
一つ目に、僕がエーミールのちょうを返そうと思ったのは、エーミールの家の中だということが文中のp208l17の「階段を下りた。」などからわかるからだ。エーミールの家の中で、「ちょうを返さなきゃ」と思ったらわざわざ僕の家の入口まで戻る必要がないからだ。仮に、僕の家の入口だとしたら、「エーミールの家を出た」という意味の描写があるはずだ。
二つ目は、「立ち止まる」の意味についてだ。立ち止まるは、そのまま動かないという意味にもとらえられる。なので、僕は、家の入り口から、急いで引き返すまで動かなかったと考えられる。もし、僕の家の入り口で立ち止まっているなら、p206l10の悟った、の後に「エーミールの家に向かった。」などと書くはずだ。
2 「エーミールの家」だ。理由は一つある。
最初にこの文は昨日の議論をふまえた上で見てほしいい。
まず昨日の議論を聞いて、自分は文章の風景描写だけを理由にしては、らちがあかないと思った。逆に、「僕の主観」」で考えると、すべての疑問点につじつまがあった。
ひとつ、あの「入り口」は、僕がエーミールの家の外に出て、立ち止まったと考えたらどうだろう。僕は階段を下りる時、とても怖い思いをした。できることなら戻りたくないが、蝶を返すにはもう一度ドアを開けて引き返す必要がある。家にもう一度入ろうと、僕は覚悟を決めた。そう考えると、家のドアは、僕にとって「入り口」となるのだ。やはり、家の構造や文の書き方より「僕の見た物」が何より正確なのだ。なぜならこの物語は、僕の「少年の日の思い出」だからである。
3 「エーミールの家」だ。理由は一つある。
それは、他の人も言っているとおり、僕がエーミールの階段を出てから、まるで一枚一枚の写真のように僕の行動・気持ちを細かく説明していた。女中と擦れ違う。どきどきする。額に汗をかき、自分自身におぼえる。そこまで細かく説明して、いきなり中庭の向こうの僕の家までとぶ…あまりに不自然だ。もしこれが僕の家の前だとしたら、少なくとも僕がエーミールの家の扉を開ける、という行動はかかれているはず。私は、僕がエーミールの階段を出てから、「家の入り口」に立つまで、一つ一つの行動を写した写真は続いているという風に読み取った。漫画なら一コマ一コマ、ていねいにかかれている。だからこそ、僕が立ち止まった所は僕の家の入り口ではなく、エーミールの家の入り口だと考えたのだ。
4 「エーミールの家」だ。理由は一つある。
私は、最初にこの物語を読んだときに十七段落の場面を想像したら頭の中にエーミールの家がうかんだ。それはなぜか?
それは、おそらくこうだ。十七段落の情景を順におっていくと、まず、階段を下りる。その次に、誰かが上がってくるのが聞こえる。そして、みつかりはしないか、という恐ろしい不安に襲われて、蝶を上着のポケットに隠してしまう。その後、ゆっくりとあるき続けたとあるが、この歩き続けた場所もこの後の女中とびくびくしながら擦れ違うのも、エーミールの家の入り口だ。問題は、胸をどきどきさせてから、立ち止まるまでがどこかだ。これが中庭なら、家を出てとか中庭をとか書かれるのが自然だがそんな言葉はない。だからこの時は家の中だ。立ちどまるのは、次につく所。
2022-04-12
中学1年α組 少年の日の思い出どちら家のの入り口か 2021年12月14日
【実験として、このクラスだけクライマックスでなく「入り口」で討論させた。
この論題のほうが、表現を元に論じるに優れているかもしれない】
(教師の添削は一字もない)(入り口討論直後の作文)
【当然だが、決して宿題にしない。授業時間内だけの作業で提出】
1 「エーミールの家」だ。理由は2つある。
一つ目に、僕がエーミールのちょうを返そうと思ったのは、エーミールの家の中だということが文中のp208l17の「階段を下りた。」などからわかるからだ。エーミールの家の中で、「ちょうを返さなきゃ」と思ったらわざわざ僕の家の入口まで戻る必要がないからだ。仮に、僕の家の入口だとしたら、「エーミールの家を出た」という意味の描写があるはずだ。
二つ目は、「立ち止まる」の意味についてだ。立ち止まるは、そのまま動かないという意味にもとらえられる。なので、僕は、家の入り口から、急いで引き返すまで動かなかったと考えられる。もし、僕の家の入り口で立ち止まっているなら、p206l10の悟った、の後に「エーミールの家に向かった。」などと書くはずだ。
2 「エーミールの家」だ。理由は一つある。
最初にこの文は昨日の議論をふまえた上で見てほしいい。
まず昨日の議論を聞いて、自分は文章の風景描写だけを理由にしては、らちがあかないと思った。逆に、「僕の主観」」で考えると、すべての疑問点につじつまがあった。
ひとつ、あの「入り口」は、僕がエーミールの家の外に出て、立ち止まったと考えたらどうだろう。僕は階段を下りる時、とても怖い思いをした。できることなら戻りたくないが、蝶を返すにはもう一度ドアを開けて引き返す必要がある。家にもう一度入ろうと、僕は覚悟を決めた。そう考えると、家のドアは、僕にとって「入り口」となるのだ。やはり、家の構造や文の書き方より「僕の見た物」が何より正確なのだ。なぜならこの物語は、僕の「少年の日の思い出」だからである。
3 「エーミールの家」だ。理由は一つある。
それは、他の人も言っているとおり、僕がエーミールの階段を出てから、まるで一枚一枚の写真のように僕の行動・気持ちを細かく説明していた。女中と擦れ違う。どきどきする。額に汗をかき、自分自身におぼえる。そこまで細かく説明して、いきなり中庭の向こうの僕の家までとぶ…あまりに不自然だ。もしこれが僕の家の前だとしたら、少なくとも僕がエーミールの家の扉を開ける、という行動はかかれているはず。私は、僕がエーミールの階段を出てから、「家の入り口」に立つまで、一つ一つの行動を写した写真は続いているという風に読み取った。漫画なら一コマ一コマ、ていねいにかかれている。だからこそ、僕が立ち止まった所は僕の家の入り口ではなく、エーミールの家の入り口だと考えたのだ。
4 「エーミールの家」だ。理由は一つある。
私は、最初にこの物語を読んだときに十七段落の場面を想像したら頭の中にエーミールの家がうかんだ。それはなぜか?
それは、おそらくこうだ。十七段落の情景を順におっていくと、まず、階段を下りる。その次に、誰かが上がってくるのが聞こえる。そして、みつかりはしないか、という恐ろしい不安に襲われて、蝶を上着のポケットに隠してしまう。その後、ゆっくりとあるき続けたとあるが、この歩き続けた場所もこの後の女中とびくびくしながら擦れ違うのも、エーミールの家の入り口だ。問題は、胸をどきどきさせてから、立ち止まるまでがどこかだ。これが中庭なら、家を出てとか中庭をとか書かれるのが自然だがそんな言葉はない。だからこの時は家の中だ。立ちどまるのは、次につく所。