カテゴリー別目次
2018-12-30
先日、五島列島に行った。
ダイビングの最後に行きたかったがかなわなかった海だ。
せめて、のんびり見るだけでもと思ったら研修のような旅になった。
【遠藤周作文学館から海を望む】
ここまで来るのは、よほどの物好きかという遠く何もない海の前だった。
だが、絶景であった。
遠藤周作が『沈黙』を書い場所だという。
文学館は小さく美しく、鉛筆で書いた自筆の原稿用紙や葉書などが並んでいた。
撮影は禁じられていた。
◆視写ここから◆
「純文学の場合、私は原稿用紙をそのまま使うのではなく、
その裏に細くとがった鉛筆をつかって、虫眼鏡を使わねばわからぬほどの
小さな字でぎっしりと書く。
それを清書してみると大体、四百字詰で八枚から九枚になる。
自分で清書するより人に清書してもらうと、
何か客観的に文章を読みなおしているような気がして加筆訂正しやすくなる。」
『乱雑の中の秩序』より
◆ここまで◆
旅は気分を上げるので思わずこんなふうに視写などしてしまいがちだが僕はまずしない。
だが、遠藤周作の生没には驚く理由があった。
生年、1923年3月27日(大正12年)
没年、1996年9月26日(73歳)
遠藤周作の生年は、たしか僕の伯父と同い年であった。
伯父は高2から僕の後見人を引き受けてくれた。
大戦に招集され、特攻隊の飛行機に乗る順番を待つうちに終戦となった。
そして、僕が確か31の歳に病に没した。
遠藤周作は戦争に行かなかったのか。
行かなかった。
まず、文科の学生の徴兵猶予制というものがあった。
遠藤は慶応大生であった。
伯父は中卒であった。
徴兵猶予制はすぐ撤廃され、遠藤は徴兵検査を受けるが肺の病で第一乙種の入隊一年延期となる。
その約一年後、期限切れの直前1945年8月に戦争は終わる。
遠藤は30半ばに結核を患い、1962年39歳まで2年2か月の間入院する。
没年は1996年、73歳であった。
伯父が亡くなったのは1992年であったか。遠藤周作の4、5年前だった。
そのとき、僕は自分の生活がメチャクチャで、いろんなことが記憶にない。
割安ツアーで、行くのも意識しなかった文学館で、僕は初めていくつかのことを知った。
繰り返すが、高台から眺める西の海は、俗人には通えぬ絶景であった。
【頭ケ島天主堂・キリシタン洞窟・長崎夜景】
チャーター船で、五島列島を案内してくれた女性ガイドがプロだった。
天主堂とは教会のことである。
「神父」はカトリックで結婚もしない。
「牧師」はプロテスタントで結婚も許される。
細かいことは全部すっとばす。
どんな土地に住んでも、勉強してプロの仕事を続ける人がいるのに感激した。
余談だが、列島では今「マグロの養殖」をしている。
ブリ、ハマチの養殖はエサ代が高くて儲からない。
マグロのエサ代も高いが売り値も高くて儲けが出る。
地元の人は歯ごたえのないマグロは食べないそうだ。
もう、マグロはやめようよ、日本人。
【鯨賓館 げいひんかん ミュージアム】
写真はないが 鯨賓館ミュージアムがとても面白かった。
南極で捕鯨をした漁師の話をたっぷり聞いた。
半年漁に出て、シロナガスクジラだけでも一度に600頭捕ったという。
僕は面白いときはどんどん尋ねる。
「今でも、うじゃうじゃいますよ」
「減ってない?」
「減ってない」
「もうかりましたか」
「もうかったんんじゃないですかぁ」
「今度日本が条約を抜けましたけど、もっと捕れるようになりますか」
「いやぁ、南極のほうがいっぱいいるからぁ」
「他の国はなぜクジラを捕るのに反対するのでしょう」
「わからんなぁ」
【長崎平和公園・夜景】
長崎へ初めて行った。
恥ずかしながら広島も行っていない。
「軍艦島」も船でぐるりと回って見た。どういうところか初めて知った。詳しく知った。
だが僕には人気のわけがわからなかった。
本当にその時代と人を知るなら『邂逅の森』を読むべし。
2018-12-30
先日、五島列島に行った。
ダイビングの最後に行きたかったがかなわなかった海だ。
せめて、のんびり見るだけでもと思ったら研修のような旅になった。
【遠藤周作文学館から海を望む】
ここまで来るのは、よほどの物好きかという遠く何もない海の前だった。
だが、絶景であった。
遠藤周作が『沈黙』を書い場所だという。
文学館は小さく美しく、鉛筆で書いた自筆の原稿用紙や葉書などが並んでいた。
撮影は禁じられていた。
◆視写ここから◆
「純文学の場合、私は原稿用紙をそのまま使うのではなく、
その裏に細くとがった鉛筆をつかって、虫眼鏡を使わねばわからぬほどの
小さな字でぎっしりと書く。
それを清書してみると大体、四百字詰で八枚から九枚になる。
自分で清書するより人に清書してもらうと、
何か客観的に文章を読みなおしているような気がして加筆訂正しやすくなる。」
『乱雑の中の秩序』より
◆ここまで◆
旅は気分を上げるので思わずこんなふうに視写などしてしまいがちだが僕はまずしない。
だが、遠藤周作の生没には驚く理由があった。
生年、1923年3月27日(大正12年)
没年、1996年9月26日(73歳)
遠藤周作の生年は、たしか僕の伯父と同い年であった。
伯父は高2から僕の後見人を引き受けてくれた。
大戦に招集され、特攻隊の飛行機に乗る順番を待つうちに終戦となった。
そして、僕が確か31の歳に病に没した。
遠藤周作は戦争に行かなかったのか。
行かなかった。
まず、文科の学生の徴兵猶予制というものがあった。
遠藤は慶応大生であった。
伯父は中卒であった。
徴兵猶予制はすぐ撤廃され、遠藤は徴兵検査を受けるが肺の病で第一乙種の入隊一年延期となる。
その約一年後、期限切れの直前1945年8月に戦争は終わる。
遠藤は30半ばに結核を患い、1962年39歳まで2年2か月の間入院する。
没年は1996年、73歳であった。
伯父が亡くなったのは1992年であったか。遠藤周作の4、5年前だった。
そのとき、僕は自分の生活がメチャクチャで、いろんなことが記憶にない。
割安ツアーで、行くのも意識しなかった文学館で、僕は初めていくつかのことを知った。
繰り返すが、高台から眺める西の海は、俗人には通えぬ絶景であった。
【頭ケ島天主堂・キリシタン洞窟・長崎夜景】
チャーター船で、五島列島を案内してくれた女性ガイドがプロだった。
天主堂とは教会のことである。
「神父」はカトリックで結婚もしない。
「牧師」はプロテスタントで結婚も許される。
細かいことは全部すっとばす。
どんな土地に住んでも、勉強してプロの仕事を続ける人がいるのに感激した。
余談だが、列島では今「マグロの養殖」をしている。
ブリ、ハマチの養殖はエサ代が高くて儲からない。
マグロのエサ代も高いが売り値も高くて儲けが出る。
地元の人は歯ごたえのないマグロは食べないそうだ。
もう、マグロはやめようよ、日本人。
【鯨賓館 げいひんかん ミュージアム】
写真はないが 鯨賓館ミュージアムがとても面白かった。
南極で捕鯨をした漁師の話をたっぷり聞いた。
半年漁に出て、シロナガスクジラだけでも一度に600頭捕ったという。
僕は面白いときはどんどん尋ねる。
「今でも、うじゃうじゃいますよ」
「減ってない?」
「減ってない」
「もうかりましたか」
「もうかったんんじゃないですかぁ」
「今度日本が条約を抜けましたけど、もっと捕れるようになりますか」
「いやぁ、南極のほうがいっぱいいるからぁ」
「他の国はなぜクジラを捕るのに反対するのでしょう」
「わからんなぁ」
【長崎平和公園・夜景】
長崎へ初めて行った。
恥ずかしながら広島も行っていない。
「軍艦島」も船でぐるりと回って見た。どういうところか初めて知った。詳しく知った。
だが僕には人気のわけがわからなかった。
本当にその時代と人を知るなら『邂逅の森』を読むべし。