2010/10/14up全ページ目次 |
霊安室で |
母が亡くなり病理解剖がすんだあと、遺体は病院地下の霊安室に寝かされた。
木の台の上に横たわる遺体のまわりに数本のろうそくと少しの花があったと思う。
昼間だったがコンクリートの壁に囲まれた霊安室は狭く殺風景だった。
葬儀屋か何かを待たなければならない。
そのあいだ親族が付き添わねばならない。
いちばんひまだったからか息子だからかわからないが、僕だけが霊安室に残った。
コンクリートの壁際のいすに座った。
僕の左手に遺体が寝かされていた。
腰ほどの高さの台に母は寝かされていた。
遺体は白装束で顔の上に布がかぶせられていたと思う。
その程度の施しを解剖のあと病院で行なったのだろう。
ろうそくとわずかな明かりの中で母の遺体と花と木の台の中で僕は待った。
とにかく気味悪かった。
どうしてよいかわからなかった。
今ならいろんな仕様があっただろう。
僕はただ座って葬儀屋か何かが来るのを待った。
葬儀屋か何かというのは、一体誰が来ることになっていたのか僕には思い出せないからだ。
少なくとも、『おくりびと』に出てくる素敵な仕事をなさる納棺師でなかったのはまちがいない。
地下の霊安室の中で背もたれのない椅子に座ったまま僕は何もできなかった。
何も考えられなかった。
ただ疲れきっていた。
亡くなったのは未明で、まだ暗いうちに起こされて僕は病院に来ていた。
神経はとんがって眠さはなかった。
霊安室に入ってきたのは男の人だった。
小柄な人だったと思う。
遺体に向かって拝んだりしたのかもしれない。よく覚えていない。
その男の人は何かしらの段取りを終えた。
何をしたのかまったく記憶にない。
ぼーっと見ていたのだろう。
自分の母親が昨日死んで解剖されて、ぽつんと一人きりでコンクリートの部屋の中の木の台の上にいたのに僕は何もできなかった。
愚鈍だった。
愚かで低能だった。
棺が白木だったのは覚えている。
白木の棺をその男性が一人で運んできたのか、もともと霊安室に置かれてあったのか覚えていない。
彼は支度が住むと、どんな支度だったか覚えてもいないが、手伝ってほしいと言った。
ろうそくと蛍光灯の薄暗い霊安室の中でそのときやっと僕は立ち上がった、のだと思う。
「足を持ってください」
と彼は言った。
どういうことかと僕は思った。
彼は僕の腰ほどの高さの木の台から、遺体を白木の棺の中に移そうとしているのだった。
今思い出したが、母の頭は奥に向かって左側にあった。
彼は自分が母の頭の側を持ち上げるのだと言ったはずだ。
だから、僕に足を持てと言っているのだった。
僕は言われるままに立ち上がり数歩歩いた。
母の足元に回って見おろすと白装束の下にすねから下がのぞいていた。
「足首を持って」
と男の人は言ったのだと思う。
僕は最初遺体の足首をつかみそこねた。
「もっとしっかり持って」
と言われたはずだ。
僕は右手で遺体の左足首を、左手で右足首を握った。
冷たかった。
細くて冷たい足だったが思いのほか重さがあった。
「よいしょ」
と男の人は言ったかもしれない。
僕は死人の足首を持っているのがもう気持ち悪くて気持ち悪くてたまらなかった。
気持ち悪いのに力を入れて握らないと母を隣の棺に運ぶことはできなかった。
足首をぎゅっと握って腰の高さの台から棺の箱の中に入れるためには、一度持ち上げ箱の底に収まるまで力を抜くことはできなかった。
自分の母親なのに。
僕は怖がって触るのもいやだというように遺体を扱ったのだ。
なんという愚かさ。
なんと言う無情か。
母は、葬儀屋か何かの男性と、馬鹿で鈍感な息子にぞんざいに扱われて棺に収まった。
棺はその後、おじの家に運ばれた。
母と住んでいた借家は六畳ひと間で狭すぎた。
集会所や小ぎれいな葬儀所がある時代ではなかった。
多くの家で遺体は自宅で通夜と告別式を迎えたはずである。
僕はこの出来事をはじめて文章にした。
そのときの怖ろしさを滑稽に友人に語ったことはある。
だが、親族に話したことは一度もない。
その、僕が高校2年生だった年からちょうど30年がたった。
2008年9月
「ぼくのせい」
2008年9月
「霊安室で」
2010年7月
「向こうへ行ったらいい酒を」