金峰山 永林寺
永林寺は、大石源左衛門尉定久公の居館(由木城)であったものを、定久公が滝山城主として滝山城へ移るに至り、叔父であ
る一種長純大和尚に譲り、天文元年(一五二三年)三月永麟寺として創建された。その後八王子城主北条氏照公の助成を受け
て天文十五年七堂伽藍の完備された大寺院が完成された。天正十五年後陽成天皇より勅願寺の綸旨を受け護国殿の勅願を受け
る。天正十九年九月徳川家康公が当寺に巡拝された折り、朱印十石、公卿格式拾万石を授けられ、赤門の建立が許可された。
又、永麟寺の麟の文字を林に変え、現在の永林寺の寺名となり今日に至っている。又、当地域に十ヵ寺の末寺を有する。格地
本寺寺院である。永林寺には、大石家丸に三つ星、北条家三つ鱗、天皇家菊、五三の桐、徳川家三つ葵等五つ紋を有しており、
往事を偲ぶことが出来る。 (境内掲示板より)
永林寺は、金峰山道俊院と号す曹洞宗の寺院です。上記のとおり由木城のあった地に創建されたものであり、遺構は認められ
ないものの「由木城跡」(「大石氏居館跡」の名称で八王子市指定史跡)としても知られます。
総門 徳川家康から許された朱塗りの門(赤門)で「由木の赤門」と称される 大棟に三つ鱗
山号「金峰山」(きんぽうざん)の扁額
門と筋塀
筋塀 定規筋と言われる五条の線が入っています 五条は一番格式が高い
五条の定規筋が入った筋塀 丸瓦には三つ葉葵
「総門」説明板
総門を入ると両側に十六羅漢 先に見えるのは三門
「十六羅漢」説明板
三門
「三門」は「山門」とも書き、同じものなのですが、微妙に違うような気がして使い分けが難しいです。
大棟の中央に五三の桐 両側に三つ鱗
寺号「永林禅寺」の扁額
元は永鱗寺であったが、1591年、永鱗寺を参拝した徳川家康は、公卿格式10万石を与えた上、赤門建立を許可。
その際に、「名にしよう、永き林なり」と賞賛し、以来「永林寺」と名を改めて今日に至るとされます。
改名の由来は他にも、10万石の御朱印に「永林寺」と書かれていたのでそれに従った。北条氏の家紋「「三つ鱗」に通ずるの
で改名した。などの諸説があるようです。
「三門」説明板
三門の両側の仁王像
中雀門(勅使門) 鬼飾りに菊紋
扉にも菊紋
「中雀門(勅使門)」説明板
勅使門は天皇や天皇の勅使のみが通ることのできる門です。現在でも私のような一般人は勅使門から境内に入ることはできま
せん。勅使門があるお寺では、表門である勅使門は境内入口にあり、普段は閉門にして大概は門前に立入り禁止の柵が置いて
あります。ここ永林寺では開門してあり、境内の中にある門=中雀門として本堂へ向かう最後の門としているようで、勅使門
は説明板にもあるようあくまでカッコ書きです。
本堂 大棟の中央に五三の桐 両側に三つ鱗
本堂前にある「金峰山 永林寺」説明板 冒頭で、ここに書かれたものをそのまま使わせていただきました。
本堂を斜めから
本堂正面(向拝) 五三の桐、三つ鱗があちこちに
同上 アップで ガラス戸のガラスにも五三の桐
本堂横の出入り口 破風鬼飾りに三つ鱗
「本堂(法堂)」説明板
大庫裡(香雲閣) 玄関ガラス戸に三つ葉葵 大棟・破風鬼飾りには五三の桐
「大庫裡(香雲閣)」説明板
鐘楼 左隣りの門には三つ鱗(貫にありますので見えませんが)
豊川殿
「豊川殿」説明板
由木豊川稲荷奥之院
お約束の六地蔵 覆屋の屋根が塩ビの波型トタンとは珍しい 他の建物がみんな立派なのでギャップを感じてしまいます
岩船地蔵
「岩船地蔵・六地蔵」説明板
本堂裏手の庭の一部
左:中雀門 中:豊川殿 三重搭
三重搭①
三重搭②
三重搭③
三重搭④
「三重搭」説明板
三重搭のある高台から境内を①
三重搭のある高台から境内を②
由木城跡の看板と由木城址碑、大石定久公像
紋に終始した説明になってしまいましたが、菊紋・五三の桐・三つ葉葵・三つ鱗といった具合にこれだけの紋を持つ(下賜さ
れた)ということは、いかに権力者とのつながりが深かったかを伺わせます。
ただ、大石氏の家紋である「丸に三つ星」だけは見つけられませんでした。もしかしたら「丸に三つ星」は個人的なことにだ
け使い、人目に触れるこうした建物に格式の高さを誇り、権威のある紋を使っているのかもしれません。(私的推測)
散策日:平成30年(2018)5月28(月)