熊谷市野原(旧大里郡江南町)の八幡神社の境内に2体の「踊る埴輪」モニュメントが建立され、
4月23日に除幕式が行われたとのことから、モニュメントを見に行って来ました。
2体の「踊る埴輪」は、この八幡神社の社殿裏にある野原古墳群から出土したもので、実物は東京
国立博物館が所蔵しています。
モニュメント台座にはめ込まれた銘板には
踊る埴輪 出土地
野原古墳群「埴輪 踊る人びと」1930年(昭和5年)3月21日出土
(古墳時代6世紀 復原高さ 左57.0cm 右64.1cm)
とあります。
2体の「踊る埴輪」モニュメントは石製(花こう岩)で、高さは 左174cm 右195cmですので
実物の約3倍の大きさです。
野原の八幡神社
社殿の裏から西方にかけて野原古墳群が展開されていますが、開墾や採土等により損壊され、今は20
数基を残すのみです。
『踊る埴輪』はこの野原古墳群から出土しました。
以前から設置されている『八幡神社と野原古墳群』説明板の横に「踊る埴輪」モニュメントと碑が
建立されました。
『踊る埴輪、この地に出土する』碑
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踊る埴輪、この地に出土する
「踊る埴輪」(「埴輪 踊る人びと」)は、1930年(昭和5年)3月212日、この地に所在する埼玉県大里郡小原
村(現在の埼玉県熊谷市野原)の野原古墳群で出土した2体の人物形象埴輪である。
「踊る埴輪」の製作年代は、周辺の遺構状況や、埴輪の造形比較などから6世紀頃と推定される。踊るような容
姿と、独特の顔の表情が印象的で、国内の埴輪の中で有数の知名度を誇る。その一方で、手綱を持ち、馬を引く
「馬飼」を表現したとする設もある。
出土後,当時の関係法令に基づき東京帝宝博物館へ移管され、欠損部を補填する修理措置を受けた後、同館が
正式に購入した。戦後は東京国立博物館が所蔵し、考古学者・後藤守一が2体を踊る人物と定義したことで知ら
れる。
両像は共に左腕を上に揚げ、右腕を前方斜め下に置いている。口と目の部分は概ね大きさの円形にくり貫かれ、
目を見開き、口を大きく開けたような造形が表現されている。髪形や装備の様子から小さい像の埴輪が男子像と
考えられている。
このモニュメントは、野原古墳群で出土した「踊る埴輪」の記憶を次世代に引き継ぐことを目的に建立された。
この埴輪の躍動感は、野原における大地の響きとなり、ここに住まう人々に勇気と希望を与え続けることだろう。
【裏面】 2022年(令和4年)4月1日
撰文 高階秀爾・山下祐樹
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「踊る埴輪」モニュメントと碑
2体の埴輪を背後から
「踊る埴輪」モニュメントの台座の裏側には2枚の銘板が嵌めこまれています。
左側の銘板には 右側の銘板には
埼玉県熊谷市野原古墳群 踊る埴輪モニュメント建立委員会
八幡神社 野原自治会 協力 野原自治会 野原八幡神社氏子総代各位
熊谷市立江南文化財センター 熊谷市教育委員会
寄贈者 八木賢十郎 ※※※※ ※※※※
総括 熊谷市立江南文化財センター山下祐樹
施工 ※※石材店 代表※※※※
2022年(令和4年)4月1日
写真左 熊谷市江南文化財センターに展示されている『踊る埴輪』レプリカ
昨年訪館した際の写真ですがショーケースのガラスに反射してしまい1体は残念ながら
写真右 旧江南町の代名詞・キャッチフレーズともいうべき「緑とおどるはにわの里」の看板で
旧江南地域の市境に何カ所か建てられています。
下には「江南町 江南町観光協会」と書かれていますがほとんど読めなくなっています。
代わりに柱に「熊谷市」のシールが貼られています。これは野原古墳群から1kmほどの
場所に建っていました。
仮に、「踊る埴輪」ではなく「馬飼」(馬曳き人)の埴輪であったとされていたなら、ここまで有
名になることもなかったでしょうし、旧江南町の代名詞はおろか、東京国立博物館のキャラクター
「トーハクくん(本名:東 博 あずまひろし)」のモデルとなることもなかったでしょう・・・!!
散策日:令和4年(2022)6月25日(土)