羽尾城(別名:宮前城) 所在地:埼玉県比企郡滑川町羽尾
『滑川村史』によれば築城は元亀3年(1572)松山城の出城として山崎若狭守が普請奉行となって当たり山田伊賀守が城主となる。
天正3年(1575)山田伊賀守が没し、山崎若狭守が城主となった。
天正18年(1590)豊臣秀の小田原の役により、豊臣方の前田利家軍に包囲され激戦数十日、戦闘熾烈の攻防を繰り返したが、4月上旬散る桜と共に陥落した。
そんな『羽尾城跡』を攻城してきました。
地図に示したよう羽尾城は市野川が大きく蛇行した北側丘陵上に築かれていました
この藪の先に羽尾城跡があります。右端の建物が羽尾打越・金光地集会所(写真失敗)
集会所から西方に少し行ったところに標識が設置されています。ここから攻城開始しました。
少し歩いたところの南側(進行方向右側)に土塁がありました。だいぶ低くなっていますが・・・
空堀です。ここもやはりだいぶ浅くなっています。土塁ともども長い時間の経過の成せることかも・・・
ここの土塁もだいぶ低くなっています。土塁南側は郭跡でしょうか(仮に「三郭」としておきます)
標柱が立てられています。左側の藪が「二郭」(やはり仮称で)でしょうか
右に折れずそのまま東方に進んでみます
両側(北側・南側)とも藪です。この道は堀跡でしょうか・・・
北側の藪
南側(二郭)の藪ですが、空堀跡があります。多くの時間の経過でこんなに浅くなってしまったと思うことにして
藪の間を抜けるとそこは畑でした。郭跡かどうかはわかりません。
一旦、市野川のある南側の道路に出てから「本郭跡」と思しき場所に上がりました。
中央の土塁の南側(左側)が「本郭跡」、北側(右側)が「二郭跡」でしょう
今回、『羽尾城跡』を攻城するにあたり、WEBで複数の方の攻城記を読ませていただき予備知識とさせていただきました。
案内標識や標柱が設置されていたことから「もしや」と希望を持ってしまいましたが、それ以外の案内板や標識等はなく、
城跡整備のあとは見られず、一部は農地になっていたり住宅地となっていたりで、どこまでが城域かわかりませんでした。
土塁は崩れ、空堀は埋まっている姿を見て、これでは何の防御の役には立たないと思ってしまいます。それが、多くの時間が
流れた結果によるものとわかってはいても、整備された城跡とつい比較してしまいます。
因みに、この『羽尾城跡』は埼玉県選定重要遺跡となっているようです。
攻城日:2015年(平成27年)2月28日(土)