城 名:柏原城(かしわばらじょう)
別 名:城山砦・上杉城・上杉砦
形 態:崖端城
時 期:天文14年(1545)
築城主:上杉憲政
城 主:上杉憲政
遺 構:土塁・空堀
指 定:市指定史跡(昭和48年〔1973〕3月1日指定)
県選定重要遺跡(昭和44年〔1969〕10月1日選定)
現 状:城跡
所在地:埼玉県狭山市柏原2346-2ほか
天文年間に山内上杉憲政が、後北条氏に奪われた川越城を奪還すべく包囲した際に陣を敷いたとされる柏原城を再訪しました。
柏原城跡については色々な呼び名があり、狭山市においては「城山砦跡」と呼んでいるようですが、城のあった場所は大方の所
で「城山」と呼ばれ、一般名詞に過ぎません。地名の付いた「柏原城」と呼ぶ方が城を特定しやすいので、ここではこの名称を
使わせていただきます。
柏原城跡は、狭山市内では唯一の中世城郭と言われ、高さ10m程の河岸段丘上に築かれた城(砦)で、本郭・二の郭・三の郭
からなって居ます。
天文6年(1537)7月に、小田原北条氏の手に落ちた「河越城」を奪還するために、天文14年(1545)9月から半年近くにわ
たり、上杉憲政が陣を敷いたのが、この柏原城です。上杉軍が北条氏康に敗れたごは、北条氏の手に移り、同氏の城として機能
したと考えられます
その一方で、鎌倉時代に畠山重忠に従った柏原太郎の館跡ではないかと言われるようです。また、南北朝時代に鎌倉公方の足利
基氏が入間川に滞陣した際の出城とする説や、明応5年(1496)に上杉顕定が上杉朝良方の河越城を攻めたとき、顕定と手を結
んだ足利成氏の子の政氏が着陣したところともいわれています。
現地説明板にある縄張図
数か所加筆しましたが。以前の説明板には三の郭の記述、縄張図にも三の郭の表示があったようですが、現在の説明板には両者
ともありません。その理由は分りません。
北側の小口 こちらが大手でしょうか
二の郭の端にある 城山稲荷大明神
三の郭跡はこの辺りでしょうか
小口に向かって左側にある土塁 土塁の内側は空堀
喰い違い小口のようです
左側は空堀 正面に二の郭(馬出)
空堀
空堀 右側が小口東側にあった土塁
二の郭
柵の向こうの左側が二の郭 右側が小口方向
本郭への小口
本郭小口から本郭内を
本郭内から小口を振り返る
本郭と北側・東側の土塁
北側土塁上
土塁上から空堀を
本郭東側土塁
本郭から眼下の住宅団地を その先には入間川が流れています
南側にある小口への坂道 かつては竪堀であったとされます
右上の柵のある所が二の郭
南側小口まで下りてきました
搦手口と言ってもよいでしょうか
趣のある看板です
大手小口にある説明板と同じものですが、冒頭に記したように縄張図に三の郭の表示はありませんし、記述もありません。
こうして南側から見ると柏原城(城山砦)が、段丘の上に築かれていることがよくわかります。
初めてこの柏原城跡(城山砦跡)を訪ねたのは1年9か月ほど前のことですから、余程のことがない限りは以前のままの形で
あると思っていましたが、案の定、前回と全く変わってはいませんでした。
それを承知で再訪したのは、最近の投稿を見ていただければ察していただけるかもしれません。
しかし、前回と同じような写真しか撮れないのは、無意識のうちにも自分なりの撮影パターン(癖)が出来てしまっているの
かもしれません。
再訪日:平成30年(2018)8月30日(木)