名 称:多武峯瓦塔遺跡(とうのみねがとういせき)
形 態;瓦塔遺跡
時 代:奈良末期~平安期と推定
指 定:埼玉県指定史跡(名称:多武峯瓦塔遺跡 付 出土瓦塔片 一括 昭和34年〔1959〕3月20日指定)
所在地:埼玉県比企郡ときがわ町西平(旧・都幾川村)
一度は訪ねてみたいと思いつつも山の上にあると言うことで躊躇していた多武峯瓦塔遺跡・多武峯
神社を訪ねて来ました。「多武峯」は「塔の峯」とも称されています。
多武峯神社の瓦塔は、県内出土の瓦塔の中でも最古に分類されるもので、9世紀頃と推定される貴
重なものとのことです。塚の上には、文亀4年(1504)銘の五輪塔も祀られています。
多武峯神社への登り口 2kmも山道をかと思うとちょっと不安です
多武峯瓦塔遺跡は多武峯神社の社殿裏にある鎌足墓と伝わる塚の周辺から古代の瓦塔が出土した遺
跡ですので神社に行かないことには始まりません
「全長寺」登り口です ここまで来ても未だ半分弱
高台に見えるのが観音堂(現・多武峯神社)を管理していた武藤家の屋敷のようです
この場所は三叉路になっていて広い場所です
『多武峯』とあります デマントバス停・ときがわ町乗合いタクシーの乗降所でもあるようです
右手の山際に説明板が建っています
『多武峯の文化財』説明板
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多 武 峯 の 文 化 財
武藤家のあるこの地域を多武峯といいます。これは、慶雲3年(706)に大和国磯城郡多武峯(奈良県
桜井談山神社)から藤原鎌足の遺髪を移し、祭神として祀った多武峯大権現が始まりとされています。そ
の後、この地に聖観音を本尊とする福聚寺観音堂が建立されたといいます。また、観音堂領として慶安2
年(1649)徳川家光より5石の朱印状が下されています。
この観音堂を管理していたのが武藤家(当時、藤原姓)であり、江戸時代には慈眼坊と名乗る修験道場
でした。慈眼坊は、京都聖護院を本山とする天台系修験の本山派に属し、関東地方の本山派修験の大先達
であった入間郡越生郷、山本坊の配下として、外秩父地方の副先達を務めていたといわれています。さら
に元禄6年(1693)には、聖護院門跡から常陸国筑波郡(茨城県)の内50箇村の年行事職を認められて
います。
武藤家の母屋は17世紀に建設され、護摩堂を配するなど往時の修験道場の家屋形態をよく保存してい
ます。
明治2年(1869)の布告により修験は廃止されます。神仏分離により観音堂は多武峯神社に改称、慈眼
坊は姓を武藤に改め神職となりました。
このような経緯の中で武藤家は、多武峯の始まりを示唆する瓦塔片をはじめ修験道に関係する数多くの
貴重な文化財を所蔵しています。また、多武峯には、天狗や竜宮の穴などの伝説も伝わっています。
主な文化財
瓦塔片と蔵骨器 奈良~平安時代初期(県指定文化財)
板 碑 群 14世紀~16世紀
天文五年銘鰐口 一口 室町時代(村指定文化財)
役 行 者 絵 巻 一巻 江戸時代(村指定文化財)
徳川幕府朱印状 観音堂領五石 九通 江戸時代
平成15年3月
都幾川村教育委員会
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※都幾川村は玉川村との合併により現在は ときがわ町 となっていますが説明板の表記のままとしました 以下同じ
説明板の右にある『行水所』
今は使われていないようですが、かつてはここで修験者が水を浴びたのでしょう
『行水所』碑
武藤家屋敷の門です
多分これまでにも数多くの人が場所等を尋ねていると思うと尋ねるのは迷惑かと分りつつも、丁度
門を入ってすぐの庭にいた奥さんに多武峯の場所と句碑の場所をお聞きしたところ、句碑のある場
所まで案内してくれ、多武峯は行き方まで丁寧に説明してくださいました(多謝)
武藤家屋敷の東側にある板碑群の覆屋
元は武峯神社の社殿西側に立ち並んでいたという板碑のようで断片も含めると31基あるそうです
枇杷の木の向こうに見えるのが『多武峯』
この右側の道を下って行くと教えていただきましたので教えていただいたとおりに
右側に多武峯への入り口(登り口)がありました
『多武峯神社沿革の概要』説明板の背後は深い沢になっています
『多武峯神社沿革の概要』説明板
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多武峯神社沿革の概要
往古からこの地を武州多武峯と称し、日本三多武峯の一として知らる。多武峯神社の御祭神は大職冠藤原鎌足
公で今から千二百数十年のむかし即ち慶雲三丙午年(706)の3月、大和の国多武峯談山から公の慰霊を当山に還
し武藤家の守護神として祭らる。
以来文人武人の信仰殊に篤く、南北朝に降って神社山麓に火災起りその類焼を蒙り全山灰塵に帰してしまったの
であるが、当山第三十八世一峯法印別当の世、時の中納言である藤原房郷大願主となって、当地竜ケ谷の工匠森川
金八に命じ、三間四面朱塗りの殿堂を再建したのである。時正に正慶2年8月15日(1333)
明治維新に至るまで行基菩薩の作である聖観音と相殿であったが、徳川三代将軍家光公以来代々五石余の朱印状
を賜わり当地が観音堂領となっていたのである。世の人当山を称し観音山と言い鬱蒼とした原生林に覆われた神域
は天狗の山とも言われている。
明治40年1月19日の夜再び火災に逢い社殿は焼失し山容は見る影もない形相となったのであるが、大正15
年2月当山第六十四世代現在の神社を再建した。
神秘の山多武峯は断崖の絶壁、龍宮の穴等人跡未路の聖地もあり独特の風光に参詣の人々の心を強く打つものが
ある。なお当山山頂に閼を廻らし文亀2年建立(463年前)の五輪搭があるがこれは祭神鎌足公の墓でありこの塚
から奈良朝末期作の瓦塔の破片古壺等の出土品多数あり昭和34年3月多武峯瓦塔遺跡として埼玉県指定史蹟に指
定されたのである。
多武峯御詠歌
はるばると 登りて聞けば 百鳥の
声もみのりも かたらびの峯
昭和39年4月15日 第六十四代 武藤昌蔵 記
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※古い説明板につき判読できない文字もあり、もしかしたら転記した文字に誤りがあるかもしれません
『天狗の泊り木 大桧跡』碑
沢に架かる土橋を渡った右側の斜面にあります
先の説明板にもあったよう天狗伝説もあるようです
右手にある岩壁 直角に近い状態で聳え立っています
横から見ると刃物でスパッと切ったようように真っ平らです
先に進むと深い崖下に落ちそうですので・・・
多武峯瓦塔遺跡 ② に続きます
散策日:令和3年(2021)6月13日(日)・14日(月)