四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

小泉城跡(群馬県大泉町)

2010年05月10日 | 100名城以外の城館跡


群馬県邑楽郡大泉町に『小泉城跡』(町指定史跡)があることを知っていた。某所からの帰り道、大泉町を抜けてすぐのところにあるお店に食事のため寄った。
応対してくれた若い女性の店員に、「この辺に小泉城というのがあるはずなのですが分かりますか?」と訊いてみた。「分かります」と言って、その女性は、込み
合うお客さんの応対の合間を見て、紙に道順を書きながら教えてくれた。少ししてから、「さっきのはちょっと違っていましたので」と書き直した地図を持ってきて
再度説明してくれた。いくらお客からの頼みとは言え、中々ここまでできるものではない。これでは攻城しないわけには行かない。食事を終え、書いていただいた
地図を頼りに。いや、十分な説明を受けたので地図を見なくも目的の『小泉城跡』に辿り着いたのである。入口の左右の石垣の左の方には、「小泉城跡」と。

右の方には、「城之内公園」と、ふたつの名称を併記していた。これは行き届いた配慮である。




城址案内板




本丸跡




本丸内にある城跡碑

この小泉城は、冨岡主悦介直光が縄張りをした城で、「冨岡城」という名であったが、小泉氏に移ってから「小泉城」と呼ばれるようになった由。
城暦については、見づらいかもしれませんが、上の案内板に書いてありますので、いつものよう省略させていただきます。ここも、後北條氏とのかかわりがあったようです。




土塁




水堀




跳橋

高さのある土塁が周囲を囲っています。また、本丸周囲は水堀が巡っています。正直、この小泉城跡が、これほど広く、これほどの遺構があるとは知らず、
ただの空き地状態だろうくらいにしか想像していなかった私にとっては嬉しい誤算でした。

ところで、城名が小泉城なのに町名は大泉町ということはどうことなのかと、また恥ずかしい限りの疑問が生じましたので調べてみました。
何のことはありませんでした。元々は、小泉村→町だったのですが、大川村との合併により大泉町になったようです。

他にも何枚か写真を撮ってきたのですが、体調不良の状態で撮りましたので、まともに撮れておりませんので・・・

散策日:2010年(平成22年)5月9日(日)          

あしかがフラワーパーク ・・ 藤の花

2010年05月09日 | 花・鳥・風景






あしかがフラワーパークの藤の花のことは知っていたが、行こうという具体的な計画は立ててなかった。
が・・・天候の良いこの日を逃してはと、体調不良をおして、急遽、足利に向かうこととなった。入園料は調べてあった。
開花状況による変動性の入園料であり、本日は最高の1600円。時期にもよるが、一番安い時は200円であるから何と8倍である。
まあ、それだけの価値があるのかもしれないが。

フラワーパーク付近まで行くと渋滞でなかなか進まない。歩いて1キロという地点の無料駐車場に駐車して、いざフラワーパークへ。
何枚か写真をアップしておきますので見てください。1人1600円で、これだけ入っているということは・・・ついつい計算してしまうほどの混雑振りでした。




















もう満開と言ってもよいでしょうね。藤以外にも色々な花が咲いていたのですが、何しろ名前が分かりませんので・・・




今朝の新聞記事、入園券半券とHPから拾った本日の入園料。そして、パンフレットです。開くと園内マップになっていますが、
お見せしてしまうとこれから行く方の夢を奪ってしまいそうですので・・・

身体の方は返って調子が悪くなったようです。「だから行くなって言っただろう」という声が聞こえます。

散策日:2010年5月9日(日)          

片倉城跡(東京都八王子市)

2010年05月06日 | 100名城以外の城館跡




八王子市片倉町にある『片倉城跡』(東京都指定史跡)を訪ねてみた。今は、「片倉城跡公園」として整備されており、四季折々の花が楽しめるようである。
また、彫刻が幾つも立てられており、さながら彫刻の公園でもある。

現地の案内板によれば、「室町時代大江広元を祖先とする長井氏によって築かれたと伝えられています。歴史的にはほとんど不明で、規模こそ小さいが、
外敵に対して堅固な山城だったようです。」とある。この地は大石氏の領地であり、大石氏に婿入りした北條氏照の居城になったといった説や、
滝山城・八王子城(城主北條氏照)の支城の役割をになっていたなどとの説もあるようだが定かではないようである






手入れと清掃が行き届いており、チリひとつないといった感じの綺麗な公園になっている。
この写真だけでは彫刻は一部しか写っておりませんが、目的は「城跡」ですからご勘弁を。








城跡の本丸跡に神社が建てられることはよくある話だが、この住吉神社の場合は、城が過去形になってからでなく、現在形の時に勧請したようだ。






住吉神社社殿横に、城の説明板と実測図が立てられていたが、心無いものの悪戯でぼこぼこになっており、判読できなかったのは残念であった。




住吉神社より高い場所に郭跡がある。この写真は、一の丸(主郭)と二の丸の間にある堀と橋である。今でこそ堀は浅くなってしまっているが、
当時はかなり深いものであったのでしょう。そうでなければ空堀の意味を成しませんからね。




「一の丸(主郭)」




「二の丸」ですが、大変広い郭跡です。

他にも見所があったのでしょうが、某所に向かう途中に寄ったものですから時間に追われゆっくり見られませんでした。

散策日:2010年(平成22年) 5月3日(月・祝)          

小諸城跡(長野県小諸市)

2010年05月06日 | 日本100名城


 古諸なる古城のほとり   雲白く遊子悲しむ   緑なす繁縷(はこべ)は萌えず
    若草も藉(し)くによしなし   しろがねの衾(ふすま)の岡辺   日に溶けて淡雪流る

島崎藤村作詞の「千曲川旅情のうた」の1番である。ここに歌われている『小諸城』跡(国指定史跡 日本100名城)を訪ねてみました。
小諸城跡というよりも、「懐古園」と言ったほうが通りがよいかもしれませんが。この小諸城の歴史について、私が書くよりもWebで
検索すれば色々と詳しく解説されておりますので、いつもの如く省略させていただきます。

実は、ここには2,3度行ったことがありますと書きたいところなのですが、何とか休憩というやつで立ち寄っただけで、中に入ったことはありませんでした。
そんな次第ですから見たといえば、冒頭にアップした「三の門」くらいなのです。




本丸跡=懐古神社が建っている




二の丸跡




南丸の石垣




天守台(1)




天守台(2)




天守台と石垣




黒門橋




空堀=深いですね~




本丸跡の石垣




紅葉ケ丘




馬場跡




鏡石=山本勘助愛用




小諸八重紅枝垂

ここでも大きな失敗をしています。「大手門」を見ようと、地下道を歩いて線路向うに出たものの、距離があると思い引き返してきてしまいました。
「大手門」を見ずして小諸城跡を見てきたというのはちょっと憚られますね。 この小諸城跡(懐古園)を訪ねてから1週間を経過しています。
今更ブログにと笑われるかもしれませんが、まち歩きの記録として書き込みました。

散策日:2010年(平成22年)4月29日(木)            

川越城中ノ門堀跡(埼玉県川越市)

2010年05月05日 | 100名城以外の城館跡




本日は、本年4月1日に開園した川越市の史跡公園「川越城中ノ門堀跡」を見てきました。実は4月12日にも行ってみたのですが、その時は見つからずに
引き返したという苦い経験(実際には前を通っていたのに気付かなかった)がありますから、本日は観光案内所で場所を確認して行ったという始末。 
写真を見ていただければ分かるとおり、民家と民家に挟まれたところにありますので、これでは余程気にしながら行かないと見つかりませんよね。




門の前にある案内板から




門の中にある案内板から




復元された?堀と壁

この川越城も、後北条氏に攻め落とされた歴史を持つようですが、この中ノ門堀は江戸時代に入ってから構築されたもののようです。
復元?された堀跡と土壁を見た感想は? 書くのはやめておきましょう。 歴史、構造等は案内板でどうぞ!

なお、この堀跡は、県指定史跡とのこと・・・

散策日:2010年(平成22年)5月5日(水・祝)        

小田原 北條五代祭り

2010年05月03日 | まつり・イベント


小田原といえば北條五代 後北条といえば小田原城。後北条氏が活躍した頃の小田原城と天守や石垣のある小田原城(復元)とは
時代が異なるものの、後北條氏の関東支配の拠点となった小田原城も是非訪ねてみたい城郭・城跡のひとつであった。

毎年5月3日に、「小田原 北條五代祭り」が開催されることを知り、今回初めて行ってみた。正直、祭り見学となると、城攻めは満足に
出来ないし、仮に城攻めを主目的にしても、人、ひと、人でやはり城攻めには向かない。しかし、城攻めならいつでも出来るが、祭りは
年に1度しかないということで、あわよくば祭り見学と城攻めの両方をと企んだのである。

GW中のことゆえ、覚悟はしていたものの予想以上の時間を費やしてどうにか駐車場を確保したという状況であり、早めに着いて、
祭りが始まる前に少しでも城攻めをしたいというという甘い考えは通じませんでした。人出の多さに加え、普段なら見られる
場所も、祭りのため立ち入り禁止になっていましたので、とても城攻めは無理な状態。




天守の石垣の上では、「小田原城北條鉄砲隊」の演武が・・・




常盤木門(復興)




銅門(あかがねもん)・住吉橋(復元)
銅門広場で、武者隊の出陣式・帰陣式があるため関係者以外は中に入れませんでした(大きい方の建物が銅門)




二の丸隅櫓(復元)
二の丸隅櫓も、櫓前は人ひとでしたから堀越での写真となってしまいました。




お約束の案内板




本丸跡




馬出門(復元)
馬出門から武者行列が出てきますのでここにも近付けませんでした。
また、この前が各種パレードの出発点となるために、写真には写しませんでしたが、スタッフがた~くさんでした。




出陣式の観覧席は満杯。見物席の陣取りをせずに城内を歩っていたためにもう場所がありませんでした。




城内を歩っていたところ、寄居町からやってきた北條氏邦の鉢形城隊の一行とお会いしましたので、途中までお話をしながら・・・
寄居鉢形城北條まつりのときは、ここ小田原から武者や小田原提灯保存会も面々が参加しています。また、滝山城・八王子城のある
八王子市からも北條氏照軍が参加しています。更に、伊豆の国市からは、韮山城・北條氏規軍も。




武者行列出陣式見学は諦め、武者行列を含む各種パレードを見学することにしたものの、既にいい場所はもうありません。
とりあえずパレード出発点付近にしたのですが、前には列が出来ていましたので、デジカメを向けられる方向は限られてしまい、
後姿しか撮れませんでした(作戦失敗ということです)

パレードの最初は、この「泉中学校吹奏楽部」からでした。




相洋高校チァダンス部




小田原ちょうちん踊り

まずは吹奏楽隊のパレードから始まり、民踊隊、音楽隊と続きましたが、宣伝車を除いても13団体。とても写真には撮りきれません。




武者隊の行列が始まりましたが、陣取りを失敗したために馬出門から出てくるところは見られませんでした。
武者隊の先駆けはこの武者「演出奉行」




続いて風間忍者




少年武者隊




少女武者隊




手作り甲冑隊




「早雲公出陣!」
武者行列もいくつかの隊に分かれていました。先駆け隊に続き「初代北條早雲隊」です。
早雲公にはタレントの「阿藤快」さんが・・




三代北條氏康隊




地黄八幡・綱成隊




氏康正室瑞渓院




八王子城・氏照隊




鉢形城・氏邦隊

北條五代にかかわる武将や姫たちが次から次と出陣してきました。写真を見てもどれが誰だか分からなくなってしまっている状態。
その上、アングルが悪いので(陣取りの失敗と重ねて言い訳)
この武者行列のあとは「まち衆隊」として小田原ばやしや神輿等が続きましたが、あまり興味なく写真もほとんど撮っておりませんので・・・
本当は帰陣式も見たかったのですが、それは諦めて天守に登ってみました。でも、見物客だらけでゆっくり見られず。
城攻めも中途半端、祭り見学もどちらかといえば作戦失敗(作戦なんて練ってなかったのが本当の話)




市内の神社から繰り出してきた神輿のそのひとつ

城の方は機会を見てあらためて攻めてみたいですね。それが実現した時に「城攻め」のページを設けたいと・・・   
只今17時 小田原城を落としたので、これから帰陣。何時になるやら。

* 当日は「小田原城攻め」のタイトルでしたが変更しました。

散策日:2010年(平成22年)5月3日(月・祝)        

東武動物公園

2010年05月02日 | まち歩き


先日4月29日は、長野県のトウブ町(旧小県郡東部町)に行き、「北国街道 海野宿」を歩ってきました。本日5月2日も「トウブ」ということで、
漢字はちょっと感じが違いますが、埼玉県宮代町にある『東武動物公園』に行って来ました。 天候に恵まれたGWの最中だけあって、開園前から入園者の長い列。
親子でいっぱいの園内は、乗り物ひとつ乗るにも大騒ぎ。はい。当然ながら、私も親子連れで行ったのですけれど・・・しかし、さすがに疲れました。

訪園日:2010年(平成22年)5月2日(日)          

北国街道 海野宿(長野県東御市)

2010年05月02日 | まち歩き


うだつがあがらないとは、「地位・生活などがよくならない。ぱっとしない」という意味。そんなうだつのあがらない人生を送り続けている男が、
この語源となった卯建(うだつ)が上がっている宿場町を訪ねてみた。
そこは、長野県東御市(旧小県郡東部町)にある北国街道 海野宿である。戦国武将真田のゆかりの地、古くは朝日将軍こと木曾義仲が挙兵した地でもある。








説明は不要でしょう














海野宿の街並みです    家々には屋号の看板が・・・ 旅籠もあります。宿場だから当然ですね。




「本うだつ」




「袖うだつ」








気抜き小屋根 ・・・ 明治時代に入ると海野宿は宿場の街から養蚕の村へと変わり、蚕の飼育のために室内で火をたいたため、
小屋根と呼ばれる煙り出し用の気抜き窓が大屋根の上に取り付けられたとのことです。

「うだつ」を見上げてきましたので、これからの私の人生もいくらかは「うだつがあがる」と好いのですが・・・

散策日:2010年(平成22年)4月29日(木)           

真田氏居館跡(長野県上田市)

2010年05月01日 | 100名城以外の城館跡


上田城のある同じ上田市内(と言っても旧小県郡真田町であるが)に、真田昌幸が上田城を築城する前の真田氏の居館跡があるとのことから旧真田町に向かった。
旧真田町のあちらこちらに、真田氏ゆかりの町であることを示す六文銭 の入った幟や看板が立っていた。

幟の後ろに見える石垣は「大手門」跡




お約束の案内板です                         
この真田氏居館は、「御屋敷」といまでも呼ばれ、現在は「御屋敷公園」として開放されている。




東曲輪跡
東曲輪には、「皇太神社」が建てられている。これは、真田昌幸が上田城移転に際し、父祖伝来の地の荒廃を恐れて勧進したものとのこと。




皇太神社




土塁




西曲輪跡




搦手門跡の石垣

西曲輪跡に限らず、公園全体に小旗が立てられているのを見て、オリエンテーリングのコースにでもなっているのかと最初思ったのですが、居館跡が
マットゴルフのコースになっていたようです。いくら公園になっているとは言え、いただけない話・・・と、お城ファンの皆さんが書いています。
マットゴルフってよく分からないのですが、ゲートボールのゴルフ版のようなものだとか。






真田氏居館跡を訪ねたら、真田氏歴史館もセットで訪れるべきとどこかにあった。
できれば真田本城跡にも行きたかったのですが、何せ山城ですから、この日の旅の行程では無理でした・・・

散策日:2010年(平成22年)4月29日(木)