十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

納骨、バカバカしい行事をやってきた

2010年04月14日 | 佛教
 今日は朝から11年前に亡くなった父親の遺骨を菩提寺に納骨してきた。寺は浄土宗知恩院派に累する本山で納骨堂は寺内にある。
 訳が分からないのは、骨が同じ寺の中で分散して存在することなのである。墓もまた寺の内にあるのである。
 墓に埋めて土に帰す、それでいいのにわざわざ分散保管する。そのための儀式をすることになるが、檀家には金と時間の負担がかかるのである。
 
 私は元々こんなことには関心がなくて、従来寺事は母親が皆やってきたが、高齢で動きにくくなったから長男の私にお鉢が回ってきたのである。
 こんなことは要するに寺の集金システムであって、檀家は遺骨を担保に差し出しているようなものである。

 骨なんて何が大事なものか。大体、人の骨は新陳代謝により3年で入れ替わってサラになるようである。古いのは老廃物として排出されてしまう。つまりは糞便、汗等となって大地、大海にばら蒔かれるのである。骨を埋めておくのが墓とすれば、大地、大海が墓というべきなのである。あっちにも分骨があり、こっちにも分骨がある。巡りめぐって植物となり、動物となる。

 大自然の中で知らず知らずに皆それが行われている。大自然の摂理なのである。死人の骨に執着するほど、大自然の摂理に反するものはない。それを信仰として大真面目にやっている。バチあたりな!!

 まあ、灰をまいて花が咲く、いうなれば花咲かじいさん、こういう話の方がずっと良い。
コメント
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