宗教には2つの型がある。一つは時間延長型宗教でもうひとつは空間拡大型宗教である。
大概の宗教は時間延長型に属している。人の一生は誕生してから死ぬまでだが死んでからも生き続けるというもの。死後の世界を考えそこで生き続ける、あるいは生まれ変わることを考えるものである。生まれ変わるというものは今生きているのも生まれ変わりだからとさらに前世をいうものを考える。
遠い昔の人間が冬枯れで枯れた草木が春になると花が咲き葉や枝が繁茂してくることを見て再生を信じたのであろうが、それを人間に当てはめるのは妄想でしかない。しかるにそんな考えが延々と受け継がれてきているのである。ちょっと考えれば誰も死後の世界を体験した者はいないのだから、天国だ、地獄だ、生まれ変わりだということの信憑性は全然ないことは明白なのに信じ込んでいる。
何故、信じるのか。死にたくない思い、死に対する恐れがそうさせているのである。
そんな死後の世界を説く宗教が幅を利かせているのが現状であって、それを支えているのが善男善女である。
もう一方は空間拡大型宗教。生命が肉体に限定されず無限の広がりを持っていることを説くものである。釈尊の説かれた佛教がそれである。一言でいうなら「無我」である。
無我とは肇法師の言葉が分かり易い。「己無し、己ならざるところ無し、天地同根、万物一体」己と一切のものは宇宙の果てまで皆、繋がっているということである。宇宙全体を生きているということである。つまりは釈尊の説かれた縁起の理法である。
このことは前にも書いたが、現代物理学のいう「素粒子の持つ重力と電磁力はその影響するところは無限大である(基本相互作用)」ということから証明されるのである。
この道理からすると、無縁とか無関係というものは一切ないのである。その辺に転がっている石ころ一つでも宇宙全体の繋がりの中で存在しているのであり、それを否定すれば宇宙のバランスは壊れて宇宙もなくなってしまう。粉々に粉砕しても宇宙の中に存在していて宇宙の外に放り出すことはできないのである。
一切のものとのっ引きならない関係にあるということはどういうことか。何かが存在しているだけで周囲に大きな影響を与えているということである。そこから新しいものが連鎖反応的に生まれてくる。あらゆるものは自分の分身なのである。このことによって自己生命の永遠性も自覚できるというものである。
さて、結局、個体的生命の永遠性を信じても、全体的生命の永遠性を信じてもあくまでも生きている間のことであって死ねばその思いが消えてなくなるのである、生命が死後も存在し続けることは有り得ない。今ここで死後を含む未来をどう見つめて生きるかということである。しかし、虚構によるか真実によるか、天地の差があるといえよう。