志賀直哉の小説に暗夜行路というのがある。文学的素養がなく、文学を読んだことはあまりない。
私の最大テーマである自己世界の説明をこの題名を拝借してより深めてみたい。
真実というのが誰でも知っていて皆、絶対といっていいほど自信を持っている。ところが誰も何も分かっていないのだということが私の主張である。
真実からやって来る情報は、情報源の持っている情報の微々たるものでしかない。それを五感で感じ取る。子どもの時に興じた犬棒かるたに「葦(よし)の髄から天井を覗く」というのがあった。視野の狭いことを言うのだが、それどころではない。真実というのなら対象物丸ごと知らないとそれを分かったとはいえない。人間は60兆の細胞でできているという。それを全て把握できるかというととてもできる話ではない。たった一つの細胞だって見えやしない。アバウト、いい加減で納得している。
見たり聞いたりするものは、五感に由来するので正確ではなく、歪んでいる。私の眼のように近乱老乾白緑変という欠陥を持っていれば、ぼやけ、歪みは明白である。
そこへ恣意的に思惑を挟み込んでくる。見るべきものを見ないで、より好みする。
そんな中では錯誤も伴ってくる。
限定された情報により、曖昧、歪み、恣意、錯誤により頭の中に事実として取り込まれる。
その事実を排列して自分の世界としている。それを唯一のものとしている。
自信たっぷりなのである。
さて、暗夜行路だが、真実世界は知りようがない無明である。つまり、闇夜、暗夜と同じ。その中で動き回らなければならない。暗夜に動くためには明かりがいる。今なら懐中電灯、昔なら提灯だ。それで照らすと照らされた世界が現れる。光は遮るものがなければどこまでも飛んで行く。その光が物に
当たって跳ね返って来るのをキャッチする視力に限界があるからその世界も自ずから限定的なものになる。
まず、照らし出す世界があってその先は来たことがあるなら、記憶されたイメージを呼び出して世界の継ぎ足しをする。それの先は地図や案内板なんかの情報を活用し想像の行路を考える。それが尽きればそれこそ闇の中だ。
道が分岐していればどちらに行けばよいか分からない。
とにかく、人生は一寸先は闇、闇夜を歩く準備をしておかなければならないということである。
終着点はどこか、そこに行く地図、コンパスを用意しておかなければならない理屈である。