「われを排列しおきて尽界とせり」
これは正法眼蔵有時の巻の一節だが、われが真実を体験したところつまり私の言う事実を並べて世界というものができているという。
たとえば、幽霊を考えてみよう。私にとって幽霊なんか出会ったこともないし、信じてもいない。つまり、配列しようのないものである。私の世界には幽霊は存在しないということである。しかし、その存在を本気で信じている人がいる。その人は他人から聞いたというだけでそれを信じてしまっている。つまり、その体験、思い込みの事実を自分の世界の中に配列してしまっているのである。
しかし、私にとっても幽霊という言葉を知っている以上その言葉を知るという経験の程度は自分の中に事実として存在していることになる。言葉さえ知らないということではない。
「真実✕心意識=事実、 事実✕心意識=<事実> 、<事実>✕心意識={事実}・・・・・・
いくらでも増殖することができるのが厄介なのである。ちゃんと整理できているかどうか。厄介物を配列してはいないか。
これを整理するのが佛道修行なのである。
衆生無辺誓願度、煩悩無尽誓願断、法門無量誓願学、佛道無上誓願成
衆生無辺誓願度とは自分の外の誰かさんを済度しにいくという話ではなく、自分の頭の中のゴジャゴジャを整理するという意味である。もちろん、誰かさんを済度するということを否定するわけではなく、それもまた自分の中の事実を整理するという意味なのである。