十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

生きているということは誰かに借りをつくることなのか?

2016年08月22日 | 人生
いつも自転車で前を通る寺の掲示板に、先月亡くなった永六輔氏の言葉が書かれていた。

こういう考え方が嫌いなので、その文を紹介するとともにどこが気に入らないか書いてみたい。

「生きているということは誰かに借りをつくること。
生きていくということはその借りを返してゆくこと。
誰かに借りたら誰かに返そう。
誰かにそうしてもらったように誰かにそうしてあげよう。」

この文章を読んだ多くの方は、その言っていることに納得されるのではないかと思う。
だからこそ、永氏の著作の中に残され、それをお寺さんが紹介しているのであろう。

しかし、貸したり借りたりは所詮処世のこと、世渡りのことである。勿論それも大事なことだが、人生をそういう考えを根本に据えると辛いものになると思う。

人生は貸し借りで考えたら誰でも生まれてからは世話になり放し、借りは留めなく積み上がりとても返せるものではない。若くして亡くなる人は返せないまま亡くなってしまうことになる。
高齢者も借りを作って亡くなるのではないだろうか。それまでに貸しを作っておいて差し引きなんてことができるのだろうか。

佛教的には貸し借りでない「お陰様、ご互い様」で行きたいものである。

そういう意味で恩という言葉も気に入らない。ひねくれているのかも知れないが何とかの恩とかいうと、裏に恩返しを要求するようなニュアンスを感じてしまうのである。

この寺は真宗の寺で、報恩講という行事が行われるが、 昔ほどの得信者がいない現在にあっては 報恩というのはさしずめお布施を持って来いということと勘ぐってしまう。

コメント
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