十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

「佛と仏とは大違い」の記事を削除しました。

2019年04月28日 | 佛教

2011年6月26日に「佛と仏とは大違い」というタイトルで次のような記事を書きました。

『もう、気づかれた方もおられると思うが、以前「仏」という字を使っていたが「佛」という旧字に変えた。佛の字は人偏に弗で人にあらずという意味である。佛は無我だからちゃんと理屈にあっている。

 ところが新字の仏は人偏にムでムはカタカナのムで無に通じるくらいの意味だと思っていたが、最近漢字としてムは私という意味だと知った。つまり、我が有我ということになる。これでは全くの逆でブッキョウがブッキョウでなくなってしまうのである。

 従って、以後仏教という字は使わない、人にも使ってほしくない。坐禅を座禅と書くのは間違いだがそれどころのものではないことは確かである。

 どうも新字を作ったり、当用漢字を定めた国語学者は文化を理解しない軽薄な連中だったことが分かる。

 以前にも書いたが、金を失うと買いて「鉄」、火構えの上に動くと書いて「勲」、縣の偏だけの「県」は晒し台と、まあ、縁起の悪い言葉を作り出したが仏はこと信仰にかかることだけに信仰者にとってはとんでもないことなのである。』

ところが、ㄌㄧㄣさんから2018-08-20 にこの記事に関しコメントがあり、それに気づかず来てしまいました。

さて、その内容は次の通りです。ㄌㄧㄣさん 有難うございました。

『仏は佛の古字で戰國時代には用例がありますし、魏の時代にも使用例があります。
http://www.guoxuedashi.com/kangxi/pic.php?f=dashuyuan&p=155
同時代の厶は仏の右部とは異なる字形をしていてどうにも私の意には取れません。
http://www.guoxuedashi.com/kangxi/pic.php?f=xinjinwb&p=1336
厶には某の意味があり仏はこの意を用いた会意と考えるのが自然であり、大違いではなく同一ではないでしょうか?
現代の字形や常識にばかり捕らわれることは文化の無理解に繫がると思います。』

中国での古字と言われてもと気もしますが、指摘は指摘です。この際私の主張は撤回させていただきます。私的には佛の字を使いたいのですが、一々変換するのも面倒なところもあったので仏の使うように致しました。ご了承願います。

私の真似をしていたお方がおられましたら、後はご自分のご判断でお願いします。

ついでですが、文字に関して最近こんな事がありました。私は大蔵経データーベースをちょくちょく利用するのですが、「輪廻」を検索すると27件しか出てきません。

ところが、中国語の簡体字「輪迴」なら、2187件ヒットするんです。大正新脩大蔵経データベースに簡体字が入るのか、これはもう中国人がデータベースに作成に関与していたに違いありません。

廻と迴では画数もそう変わらないし、簡略にもなっていないと思いますが・・・。

http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php

日本で使われる漢字で、旧字と新字がありますが、中国語も繁体字と簡体字があってそういうものが日本の中に混在するようになってきています。決していい傾向とは言えないように思います。

元の記事はこの記事の掲載をもって削除します。

コメント
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