ツイッターに次のようなツイートをする人がいた。
「瞑想と坐禅(ざぜん)ってどう違う?」
それに対して、ネルケ無方さんが、
「瞑想と坐禅ってどう違う? 瞑想は坐って行う精神修養。目は瞑る。 坐禅は坐ることに+αしない。目も瞑らない。 …という理解がもっともシンプル 。
瞑想の目的: 自分を見つめたり、自分を無にしたり… さまざま。 坐禅の目的: 特になし。」
とツイート。
そりゃ聞こえませぬ伝兵衛さん。
こんな書き方では+αのある方がいいじゃないかとなってしまう。
そもそも仏法としての坐禅と瞑想とを一緒にするのが間違い。次元が違うのである。
道元禅師は修証一如と言われている。坐禅が悟りだというのである。それで完全であり完結している。それに+αなんて考える余地なしである。
+αがどんな立派なことであったとしても仏法からすれば煩悩に過ぎない。内山老師のいう頭の分泌物だ。
そこで、私もツイート。
「瞑想は迷想、所詮は考え事です。 漢訳仏典には瞑想という言葉はありません。」と。
道元門下の僧侶が瞑想なんかに関わっては駄目だ。
なのに、道元禅のアップデートなんていう山下某のような僧侶も出てくる。
宗門の行く末が案じられる。知らんけど・・・。
というようなことを書いていたら、ツイートした人から今「いいね」が帰ってきた。