十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

瞑想は迷想(道元禅の立場から)

2020年12月30日 | 佛教

 近頃、瞑想とかマインドフルネスという言葉を目にするようになった。

 坐禅は開目してするのが原則、瞑想という言葉は仏典ではどうなっているのか、以前大蔵経のデータベース調べたら1件も出てこなかった。それを記事にしたことがある。

 目を閉じて想うなんて、坐禅の姿ではない思ってそれでお終いにしていたのであるが、近所の図書館で『「マインドフルネス×禅」であなたの雑念はすっきり消える」』という本が目に留まったのである。

 タイトルだけでは読む気もしないところだが、著者名が山下良道とあったの手に取ってみた。

 山下氏は昭和58年に安泰寺で出家得度している。私は56年に在家で受戒しているので、出家、在家の違いはあるが、安泰寺では私の方が2年先輩になるのである。

 また、プロフィールによると、鎌倉一法庵というのを作り坐禅を指導してという。

 一法というのは私の戒名でもある。因縁を感じ読んでみることにした。

 しかし、読んでみてがっかりするというより腹が立ってきた。
読みたくもないが、もう一度読み直して別途年が明けてからその理由を書いてみることにする。いつになるか分からないが・・・。

 以下は瞑想という言葉についてだけ、手元にある資料で調べてみたものを記録しておきたい。

 まず、大蔵経データベースで検索すると、瞑想という言葉は1件もヒットしない。類似の文字として冥想がたった6件あるのみである。

 坐禅は3126件、その類似の言葉として
禅定 8573件、
禅那 754件
止観 587件
三昧 61731件である。

 そして、厚み10センチある漢和辞典の大字典(昭和13年発行)を見ると、冥想という言葉は存在するが瞑想という言葉は挙がっていない。

 広辞苑(昭和58年発行)には「瞑想は目を閉じて静かに考えること。現前の境界を忘れて想像をめぐらすこと」とある。

 岩波仏教辞典(平成10年発行)では見出し語が冥想で瞑想ともいうとなっている。
その冥想であるが、禅がヨーロッパでmeditationと訳され、それが邦訳されて冥想となったようである。

 つまりは、坐禅は冥想と言っても瞑想ではない。しかし、冥想もぴったりしたものではない。いい加減なものである。

 坐禅もしくは禅と呼ぶべきだろう。

(続く)

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