ツイッターに次のようなツイートをする人がいた。
「瞑想と坐禅(ざぜん)ってどう違う?」
それに対して、ネルケ無方さんが、
「瞑想と坐禅ってどう違う? 瞑想は坐って行う精神修養。目は瞑る。 坐禅は坐ることに+αしない。目も瞑らない。 …という理解がもっともシンプル 。
瞑想の目的: 自分を見つめたり、自分を無にしたり… さまざま。 坐禅の目的: 特になし。」
とツイート。
そりゃ聞こえませぬ伝兵衛さん。
こんな書き方では+αのある方がいいじゃないかとなってしまう。
そもそも仏法としての坐禅と瞑想とを一緒にするのが間違い。次元が違うのである。
道元禅師は修証一如と言われている。坐禅が悟りだというのである。それで完全であり完結している。それに+αなんて考える余地なしである。
+αがどんな立派なことであったとしても仏法からすれば煩悩に過ぎない。内山老師のいう頭の分泌物だ。
そこで、私もツイート。
「瞑想は迷想、所詮は考え事です。 漢訳仏典には瞑想という言葉はありません。」と。
道元門下の僧侶が瞑想なんかに関わっては駄目だ。
なのに、道元禅のアップデートなんていう山下某のような僧侶も出てくる。
宗門の行く末が案じられる。知らんけど・・・。
というようなことを書いていたら、ツイートした人から今「いいね」が帰ってきた。
宇宙の力を強調すると、アートマン(真我)ですよ。
宇宙=神 と言っているようなものです。
キリスト教みたいに人格はないのかもしれませんが。
四諦、十二支縁起、諸行無常、諸法無我、五蘊説、十二処説、空観、いずれも縁起から出ているのです。
それが基本です。
宇宙全体が縁で繋がっている。縁というのは宇宙力です。
諸行無常、諸法無我ですね。
縁起は苦を滅するための道具です。
修行は坐禅でも瞑想でも良いですが、
念仏と同様それも方便。
宇宙と一体化というのは
宇宙=阿弥陀如来 と何ら変わりません。
無我となるための方便でしょう。
観無常から離欲、我執を離れて楽になる
これが大事なのかなと。
私は、一法様とのコメントのやり取りでは
仏教原理主義者のような言いっぷりですが
原理主義ではまったくないですよ。
ただ、基本がしっかりしていないと坐禅にしろ
(一法さんは認めないでしょうけど)瞑想も無駄な時間になってしまうのかなと。
何から何まで仏典に書かれていることを信じていなければならないということではないでしょう。
仏教の根本の真理は縁起です。
修行は坐禅です。
それで何の不足があるのでしょう。
浄土教じゃ。南無阿弥陀仏だけすよ。
では、一法さんが、考えを
仏教として語ってないのであれば、
知恵袋などのサイトで
あたかも仏教のように勘違いされないように
科学観点だとか私の意見だとか
はっきりと言うべきじゃないですかね?
2500年前の仏教??
ええ。私ももちろん疑ってますよ
どこからどこまでが釈迦の言説かわかりませんからね。
ただ、これこそ正しい、これは間違いだと
などと仏教者がハッキリ述べるのは
ちょっと違うんじゃないかと
ツッコミ入れたくなるんですよね。
一法さん、twitter上でよくツッコミされてますよね。
前に言ったと思うけれど、私は仏教の縛られて生きているのではありません。
仏教を信奉していますし、科学も信奉しています。
私は私の考えで私を生きているのです。
宗教は安らぎと生き甲斐を与えてくれますが、縛りがあります。自由がないのです。
あなたも縛られているようですな。
なるほど、なるほどと聞いてりゃ、そうなんてしまいます。2500年前の話なんて疑ってかからなきゃ駄目ですよ。
「仏教は缶詰みたいなもの」
とおっしゃられていたのをご存知かと思います。
語り口が違うだけだと。
それに対して一法さんのご意見は
これは正しく、あれは間違いと
分別が過ぎる気がするんですよね。
断見というか。
そもそも仏教は真理を語る宗教じゃなく
苦しみを滅するための宗教なので
一二支縁起にしろ五蘊にしろ実体を語っているのではなく、苦しみを無くすための方便ですよ。
だからいろんな語り口があってOKだと思うんですがね。
目を瞑って想うなんて仏教の坐法にはありません。
戦後西洋仏教が入ってきて、メディテーションを誰かが瞑想と誤訳したのです。
南方仏教では、サマタとヴィパッサナーを瞑想といっていますが、漢訳仏典では止と観です。
サマタは頭の中の掃除、ヴィパッサナーは頭の中をサーチしたり(観)、見つけたものに気づいたり(念)映像を描いたり(想)することです。
それも悪くはありません。普通は雑念だらけの頭なのですから。
しかし、それも内山老師のいう「思いは頭の分泌物」の弄くりに過ぎないのです。
そういうことを一切やめて「頭手放し」が道元禅師の言われる只管打坐の坐禅です。
念のことを南方仏教では気づきと言ってます。