近頃、マインドフルネスや上座仏教の冥想(瞑想)をやる人が増えてきているようである。
日本にはちゃんと仏祖正伝の坐禅があるのに、新しいものに飛びつく日本人の癖なんだろうか。
前にも紹介したことがあるが、坐禅について内山興正老師の文章を再度転載し直してみる。
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『龍樹祖師いわく。坐禅はすなわち諸佛の法なり。しかも外道も亦坐禅あり。
しかりといえども外道は着味の過あり。邪見の刺あり。ゆえに諸佛菩薩の坐禅に同じからず。二乗声聞も亦坐禅あり、然りと雖も、二乗は自調の心あり。涅槃を求むるの趣あり。ゆえに諸佛菩薩の坐禅に同じからず (永平広録 巻七)』
つまり外道の人もーーたとえばインドのヨガの人なども坐禅するし、日本の生長の家の人でも、神想観といって坐禅みたいなことをやるわけです。「然りといえども、外道は着味(じゃくみ)の過あり、邪見の刺あり」と出ていますが、何か色合いがついている。味付けがしてあり、坐禅すると健康にいいとか、頭がよくなる、とかいう。インドの人たちは、坐禅して昇天の福を得ようとか、来世は天人に生まれ変わろうというのが殆どで「ゆえに諸仏菩薩の坐禅に同じからず」といいます。
それから又「二乗声聞も亦坐禅あり、然りと雖も、二乗は自調の心あり。涅槃を求むるの趣あり。ゆえに諸仏菩薩の坐禅に同じからず」とあります。いま南方佛教の人たちは、坐禅してだんだん煩悩を細めていって、最後にはそれを全く無にするという。これはいわゆるの「自調の心」であり、最後には煩悩を断滅してニルバーナをえようというので、そういうつもりになっています。
ところが「諸佛菩薩の坐禅」というのは、これに反して「坐禅はまっすぐにただ坐禅する」という一事に尽きます。坐禅するーーただそれだけで、何の「つもり」ももたない。これが本当の坐禅であり、これを「只管打坐(しかんたざ)」といいます、それが道元禅です。
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マインドフルネスは上の例からするとヨガ禅みたいものでしょう。
とすると、我々、諸仏菩薩の坐禅をやっていくしかないと思うところである。
ところが禅門の坊さんが瞑想を取り入れているのはどうかと思う次第である。
勿論、仏教の範疇であることは否定しないが・・・。
佐々木閑先生は瞑想は精神の集中だと言われている。で、その言を取り入れることにして思いついたのが、七仏通戒偈である。
諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教 これを修行のやり方として2つに分けてみた。
諸悪莫作 衆善奉行 (瞑想 念、想、観の測量あり 思い手放し)
自浄其意 (只管打坐 念、想、観の測量なし 頭手放し)
仏法としてはたとえ瞑想をやってもその集中を解く只管打坐の坐禅に落ち着かざるを得ないと私は考える。
ただし、諸行無常、諸法無我を実感できているかどうかは、仏教という意味では大前提といいますか、大切だと思います。
言うまでもないですが、道元禅師もその前提は持っているはずです。
あと、上座部の瞑想と坐禅は比較するようなものでもないと思います。
上座部が来てから何年経ちますかね?
効果があるからやっている人も多いのではないですか?
道元の坐禅も、曹洞宗の方々が守ってきた伝統があるのでしょうけど、やはり時代ってのはあるのではないですか?
現代は、高度な情報化社会です。
いろんな仏教の情報が瞬時に手に入るんです。いろいろ試すのは悪くないでしょ?
あと、どのやり方が釈尊直伝かなんてわからないでしょう?
カーラーマ経読んでみてください。
サマタ瞑想の一種です。
ど忘れしましたが、覚そくでしたっけ?
要は集中しない集中から外れたら
集中しないに戻る
これサマタです。
そこを揚げ足取りされているのかわかりませんが
ヴィパッサナーもサマタもそれぞれ良いところがあるので、坐禅以外ダメだみたいな言い方は、情報化社会の現代ではあまり通用しないし、やめた方がいいですよ。