十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

唯識

2011年06月22日 | 佛教

 仏教の唯識学は「唯識3年倶舎8年」というくらい習得するにむずかしいものらしい。私も随分昔に入門本を1,2度読んでみたことがあるがそれっきりになっている。

 その概要はウィキペディアを参照してもらうとして、唯識は語源的に見ると、「ただ認識のみ」という意味であるが、これは今日では情報の問題と考えたら分かりやすいと思う。

 コンピュター的に考えると、阿頼耶識がHDD等データ保存媒体、末那識がCPU、前五識がインターフェース、意識がディスプレイと言ったところだろうか。

 さて、そこで過去、現在、未来と時間を分けて考えてみる。過去は過ぎ去っていて今はなくそれは過去の情報としてHDDの阿頼耶識に蓄えられている。それが意識というディスプレイに呼び出され意識される。つまり、識のみ完結しているのである。
 
 次に未来はというと、未だ来たらず今はない。現在、過去の情報を加工して同じくディスプレイに表示したものでしかない。これもまた識のみで完結している。

 さて、現在はというと厳密にいうと時間というものない。過去と未来のフロンティア、時間の流れを羊羹のようなものに例えると切り口の一方が過去で一方が未来、その切り口が動いていくようなものである。

 しかし、人間の感覚はそこまで厳密に感覚できるわけもなく、情報処理に時間がかかりタイムラグがある。それを見込んで考えてみると、身体内外の情報がセンサーである五官で捉えられ阿頼耶識に蓄えられている情報と照合しその上でディスプレイに表示され認識される。つまり、外界情報も認識装置であるコンピューターの働きがなければ意味をなさなくなるのである。

 目の前に危険物があってもそれが危険物と認識されなければ、その人にとって危険物とはならない。うっかり触って手に痛みを感じて初めて危険物と知る。認識が改まると次からは危険物としてうっかり手を出すことはなくなる。同じものでも認識次第なのである。安全であると認識されてきた原発が今般の事故で一挙に危険なものになってしまった。

 つまり、たとえ存在を確信しているものでもそれは大概HDDから呼び出された過去情報に過ぎないである。例えば現在、太陽の存在を疑う人はいない。しかし、それはみな過去情報に基づくものである。過去に見た太陽を思い出しているに過ぎないのである。

 目の前に見えているものでも、決して実物を全て見ているわけでもない。今見えているのは表面の光だけである。それもアバウトなものである。目の解像度に問題がある、歪みがある、盲点がある、焦点だけしか見えていないという按配である。見えていないところは過去情報を呼び出して補った上で認識しているのである。

 認識力が全てなのである。時間も空間もあらゆる存在もそして想像するものもみな認識あってのことなのである。認識されなければその人にとって何ものも存在しない。

 いや、認識しないことでもあるはずだ、未発見のものでも発見されているではないかというがそれも発見されてから認識されて存在することになったのであって、それ以前は存在するはずという程度の存在であったということなのである。

 植物状態の人、認知症の人等認識力を失った人、異常をきたした人はあらゆる存在も失われたり、歪なものとなってしまっているのである。

 正常なつもりの我々でも何もかも認識次第であり同じ一つのものを見ても皆違うのである。

 唯識とは全ては情報処理によるということである。

 

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